これが私の生きる道?


二十一世紀の資本主義 マルジャーナの知恵(岩井克人著) より

 差異から利潤を創りだす――これが、資本主義の基本原理である。だが同時に、この原理は、いままでの資本主義においては、あるいは外部的な関係として、あるいは隠された構造としてしか作用してこなかった。たとえば、資本主義のもっとも古い形態である商業資本主義とは、海を隔てた遠隔地との交易を媒介して、国内市場の価格との差異から利潤を生みだしてきた。また、産業革命以降の資本主義の支配的な形態であった産業資本主義は、いまだ資本主義化していない農村における過剰人口の存在によって構造的に創りだされた、労働力の価値(実質賃金率)と労働の生産物の価値(労働生産性)とのあいだの差異から利潤を生みだしてきた。
 だが、遠隔地も農村の過剰人口も失いつつある現代の資本主義は、もはや商業資本主義的な差異からも産業資本主義的な差異からも利潤を生みだすことが困難になってしまっている。資本主義が資本主義であり続けるためには、いまや差異そのものを意識的に創りだしていかなければならないのである。そして、それが、情報の商品化を機軸として、われわれの目の前で進行しつつある高度情報社会、脱工業社会、あるいはポスト産業資本主義とよばれる事態にほかならない。

私たちは既に、ポウプの頃の資本主義とは異なる状況のもとに生きている。恐らく。
ポウプの頃は、今ほど、差異を手に入れることは難しくなかった。
今を生きる私たちは、相当な苦労をしなければ、差異を手に入れることができない。





また、豪快!痛快♪進化論 文化の進化 では、進化論の立場から、資本主義の今後についてこう論じている。

 そろそろ、「働かなくて何故悪い」と「働かなくては意味がない」が分岐を始める頃ではないだろうか。分岐した二つの文化は同じ場所で同時に行動することになる。 そして、二つの文化はアメリカのようにエリートとそれ以外のように労働意欲によって分けられていくだろう。

差異を手に入れる困難さは、人々を二分させる。

働かなくては意味がないと時間を惜しんで働き、自分で差異をコントロールし、その結果、お金を手に入れる人。その一方で、自分で差異をコントロールすることをあきらめ、働かなくて何故悪いとささやかな収入に満足して労働時間をできる限り安定させる人。


どちらになるかを選択するのは私たち一人一人に他ならない。


私たちは、その選択の自由の中で、自分自身を見つめ、自分の価値観を知ることになるのだろう。