4月の思い出
風で葉が揺れている。もう幾度となく見てきたはずの緑色。なのに、風で揺れる度に、毎回違うもののように、心のどこかが捉えている。これらの葉たちは、ぴたりと同じ軌道を通り、私たちに全く同じ色を見せることはあるのだろうか。
青信号になった。
大勢の人が動き出す。ショルダーバックを右手で脇に押さえながら早足で進む人。足に少し余裕を持たせながら進む人。最後尾の私も、流れから離れることなく歩を進める。
人や車の流れを見ながら、ふと、さきほどの葉たちのことを思い出す。
彼らには枝という支点があり、枝には幹という支点がある。彼らの動きは決して自由ではなく、持ち場を離れることはない。
それに比べてどうだろう。私たちは、今、それぞれに、ここからどこかへ行こうとしている。皆、離れ離れになって。
いつかは、皆ここに戻るのだろうか。ここでなくても、どこかに戻る場所があるのだろうか。
私自身に照らし合わせて考えてみれば、私の動きは自由に見えて自由でない。どこへでも行けるようで、どこへでも行くものでもない。どこかに持ち場を持っている。
でも、それが、幸せというものなのかもしれない、と、ふと思う。
もう一度、空のほうに視線を傾ければ、緑たちは秋の到来を告げようとしていた。愁いの秋。
でも、私は、その愁いを恐れたりはしないだろう。春のあたたかさと、そのときに知ったあなたのあたたかさを今でも覚えているから。
もう、あなたはここへは戻ってこない。多分でもなく、恐らくでもなく。
それは、私が持ち場をひとつ失ったということ。その事実を現前たるものとして感じようとすれば、失った持ち場を埋める悲しみになるかもしれない。けれど、少し前の季節の幸せと感じれば、それらは輝く灰となって、今ここにある、そしてこれから生まれる持ち場を照らしてくれるように思う。
私も、緑も、そうやって、変わる季節の中を過ごしてゆく。