さくら

夜桜を見た。


ふとその美しさの理由を知りたくなって、じっと見つめていた。
けれど、その美しさは心を超えて圧倒的で、すっぱりさっぱり理由もなく美しいのだ、とあきらめるしかなかった。
それでも気になって仕方がなくて、桜のとおりを過ぎてからもう一度考えてみると、むくむくと理由らしき理由がわきあがってくる。



だけど、もう一度、次の日に目覚めて桜を一目観に行けば、昼間であってもそこにはやはり圧倒的な美しさがそびえ立っており、やっぱり理由なんてない、と、思うしかなかった。



自転車から降りて桜をじっと見つめていると、やがて心の時間がとまってゆく。
心はふわりと浮いてきて。
足も何だか浮き立って。
手はサドルを握り締めてはいなくて、ただそこにあるだけになっていた。



家に帰った後も、私はまだふわふわとした綿あめの上を夢見こごちで歩いていて、そんな自分にうすらぞっとしたけれど、少し時間が経ってから、それがさくらのつくった綿あめで本当によかった、と、ほっとする。自己に仕組まれたプログラムに感謝する。



まぁ、多分、少しナイーブになりすぎた。考えるよりも前に、桜を面前にしてこれからの春を祈ろう。夜桜がまちから消えてしまうのなら、夜桜はこころのひきだしのずっとずっと奥にしまって、今度は新緑に祈ればいい。










風の強い春の日のこと、思い出のなかの桜のぼんやりとしたかたちは思い出せても、桜の一本一本の美しさは、もう思い出せない。



さくらは、何も言わない。だから、わたしはここにこうやって、さくらの名を書いておこう、と思う。
その画に来年、また出会うために。