花火のもとにみな平等、なわけないか。



※追記:ちょっと拡散しすぎたのと、身元問題などあり、後日、一部収縮しました。





私は、世界史に詳しいわけでも、思想に詳しいわけでも、宗教に詳しいわけでも、ない。それでも、このエントリーを書いてみようと思ったのは、私にとって身近な人が、何故頑なにある種のことを拒み、時に、私にとって身近なもう一人の人に迷惑をかけるのか、その理由をそろそろきちんと筋道たてて考えてみたいと思ったからである。そろそろ、自分の心を整理しておきたいお年頃、というか、余裕のない現実が過去を整理させた、というほうが正しいかもしれない。

文藝春秋5月号』の「仮想と虚妄の時代」で石原慎太郎氏はこう書いている。

世界とか国家とかを舞台にした大げさな主題としてでなく、まずごく身の回りのアクチュアルな問題から目を据えなおし考え直していくべきかも知れない。

別に私は、もちろん世界とか国家とか動かしたことがあるわけでもないので、同列に並べて考えるのも、ちょっと馬鹿げているかもしれないが、これから書こうとしていることは、自分にとっては毎日仕事していても全然身近に感じられない遠ーい遠ーいビジネスの話ではなく、ずっと身近な身の回りの話。









ピョートル4世の「孫の手」雑評 私たちの時代の「無宗教」と「無思想」(「日本リベラリズムの本義」序説)のなかで、R25石田衣良氏のエッセーが引用されている。

ぼくは多くの日本人といっしょで、無信仰無宗教無神論の人間である。

(多くの日本人、というのは、宗教に鈍感な私から見ても、どうも違うような気がする。だが、その議論はここでは差し控える。)



これに対し、Pyotr1840氏は、こう分析する。

つまり、日本人の「無宗教」とは、より正確にいえば、「無−宗教」(宗教否定)ではなく、「無宗の教」(特定宗派に属さない宗教性)だろう。

先週末、隅田川で群れる人だかりを見て思った。あぁ、一億総国民花火教。・・・というのは冗談としても、何らかの特定宗派に属さない宗教性を感じたのは事実である。それは、花火という神ではなく、世間という神かもしれないし、自然という神かもしれないし、天という神かもしれないし、神という神かもしれない、または、もっと別のものかも。いずれにしても、ひとつ言えることは、それらの宗教は、私たちに階層を与えていない、ということだ。言うなれば、(経済的な観念とかそういうものではなくて、宗教的なものだけから純粋に考えれば、)何かのもとに、万人はみな平等なのである。

この”平等”という言葉は日本を考える上で、ひとつの重要なキーワードだと私は考えている。





そして、もうひとつのキーワードは、”禁欲的勤労”である。森嶋通夫氏は『なぜ日本は行き詰まったか』という本の中で、戦前の日本人は日本式儒教のもとにあったとし、次のように述べている。

年功序列、終身雇用、従業員の会社に対する忠節心を基盤にした国家主義的資本主義的経済という日本式儒教エートスに完全に合致する体制を建設するに至ったのである。

ここから言えるのは、日本式儒教が”禁欲的勤労”を支えていたということだろう。





この”平等””禁欲的勤労”というキーワードは、何を意味するか?それは、近代資本主義への適応の条件である。

ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という本の中では、営利の追求を敵視するピューリタニズムの経済倫理が実は近代資本主義の生誕に大きく貢献したのだという歴史の逆説を究明した画期的な論考がなされているわけだが、あの時代において、ピューリタニズムのみが持ちえた2つの特徴こそが、”平等”と”禁欲的勤労”である。



この”平等”という概念について、クリスチャンである結城浩さんの「結城さんがクリスチャンになったきっかけを教えて下さい」というホームページからお借りすると、

簡単に書くと不正確になりますが、簡単に書くと(^_^)、カトリックが世俗化してしまったときに、宗教改革で興ってきたのがプロテスタントです。カトリックローマ法王を頂点とするヒエラルキーのもとにありますが、プロテスタントはそうではありません。

つまり、神のもとの平等を謳うキリスト教であっても、現実世界に階層構造を持たなかったのは、プロテスタントだけであるということである。



そして、もうひとつの”禁欲的勤労”については、ロンドン日誌というホームページより。

スコットランドの銀行と聖職者というと、それとは対照的な輝かしい歴史が残っている。銀行券を発明したよりももっと輝かしい歴史といっても良いのではないかと思う。

その昔、スコットランドの銀行業界は、大金持ちが急速に発展しつつある産業革命に投資をするための機関として発達した。今日の感覚で言えば、少なくとも数百万円単位の投資をする者だけが銀行の顧客だったのである。大多数の庶民は、銀行に預けるそんな多額の現金はないから、稼いだ小銭を右から左へとただ使ってしまうという生活をしているのがほとんどだった。

それではいけない。どんなに貧しくても、今日のパン代として余った小銭は貯蓄をして、少額であっても利子を稼ぎ、やがて大きな額を貯めて事業を始めるなど、豊かになるための機会をもつべきだ、と考えた人物がいた。南西スコットランドロズウェルという村の牧師である。19 世紀の後半に彼が始めた、1 ペニーから預けられる庶民のための「貯蓄銀行」というシステムは、貯蓄の普及という点では大成功し、その後急速に世界に広がっていくことになる。後発の国では政府がそのしくみを取り入れ、日本では「郵便貯金」というシステムになった。

銀行というのは、もともと決済が専門であった(ということを、恥ずかしながら、私は『ダ・ヴィンチ・コード』で知った)のだが、それから色々な機能が付与され、ここに至っては、貯蓄という新しい機能がまた付与されたのである。



この文章の最後にもあるように、この貯蓄銀行は、近代資本主義にとっては欠かせないものとなり、それは、日本でも同じであった。




要するに、私が思うのは、あの時代の西欧と同じように、戦後の日本は同じように近代資本主義に適した宗教的バックグラウンドをもっていたということである。こつこつと貯蓄をしながら、それなりには幸せになれた時代があった。そして、その延長上に私たちがいる。










でも。










この「こつこつと貯蓄をしながら」っていうのは、日本式儒教はともかく、キリスト教ではやはり変な話なのである。今、ここの家には、聖書とかないので、恐縮ながら、finalventの日記 明日に備えることは愚かしいから引用させていただくが、

そういえば、共観福音書のイエスは、明日に備える人間を愚かしいと見ている。

 おまえは明日になるまえに死ぬのだ、と言っている。

 たしかに、そうだ。私は、いつか死ぬのだが、その死を刻む日には、明日はこない。私は明日を見ることなく死ぬのであり、そのありかたは、日々の生の構造として存在している。

正確に言うと、貯蓄なんてものは、この時点で既に否定されているような気がするのだ。





どんな宗教にも、矛盾はある。それは、キリスト教であれば、こういうことかもしれないし、日本式儒教であれば、ちょっと体制が変わったぐらいであっさり無くなってしまって、それゆえに、日本にはニートがあふれている(ように言われている、というか、そう言う人がいる)し、イスラム教であれば、キリスト教以上に平等が徹底されているあまり、本当は神のもとに意思統一がはかれるはずなのに、それを統率できる人を作れない。私が、どんなに救いを求めたいときでも、宗教にそれを求めないのは、それらの矛盾が、あまりにも人を苦しめるからだ。しかも、それは、宗教に入っているひとだけでなく、まわりの人、果ては関係ない人まで巻き込みすぎる。





話を身近な人のことに戻そう。





私にとって身近な人は、こういう宗教の矛盾を身をもって知った人であり、そういう意味で無宗教と言うことを憚らないというのは、それを体験してない私でも気持ちが分からないでもない。ただ、何故、あんなに貯蓄を拒み続けるのかということに対しては、その宗教の矛盾だけで説明しきるのはちょっと難しくて、結局のところ、ちゃんとした答えを手には入れていないように思う。そういうこととは全然関係がなくて、何とかは争えないってことなのかもしれないし、ある時期の苦労の反動もあるのかもしれないし。まぁ、これ以上、分からないってことを書いても無駄なので、この辺でもうやめるけれど、ただ、私に言えるのは、私にとって身近なもう一人の人に迷惑をかけるのだけはもうやめてね、ってことだけ。





伝えたくても伝えられない一言。