或る夏の夜の出来事



あまりにも、ヘリの音がうるさいんで、外に出た。空と地上の間に赤い半円ができていた。





途中から見ていたので、流れを理解していなかったからかもしれないが、しばらく見ていても、奇をてらったようなのばかりが間隔なくどんどん打ち上げられているように感じて、全然、きれいに思えなかった。ただ、これは受け入れるほうの自分が、体調が激悪だったとかやさぐれていたとかということのせいかもしれない。

でも、終盤に近づいた頃、ある花火を境に、急に、きれいだな、と感じ始めた。その花火は、どぉーーーんと時間が流れ、眩い光が拡散して、ぱぁっと花が咲く感じだった(なかなか、文字で表現するのは難しいのだが)。ちなみに、あ、花火ってだから花火と呼ばれているんだ、と気付いたのは帰り道の話。余談はともかく、そこから先の花火は、とてもよくて、今年も見に行ってよかったな、と思った。





眩い光が拡散して、ぱぁっと花が咲く。それが眼にうつるとき、自然と私の意識も拡がっていたような気がする。自分の腕をぐぅーんとひろげて、うぅーんと背伸びして、深呼吸するときのように。でも、その光の寿命は短くて、私たちも息を吸い続けるのには限界があって、私の意識の拡がりもそこで突然途絶えてしまうのだ。そんなとき、私は、次に打ち上げられる花火をどうしても見たいと思う。飽きるまで、深呼吸を続けていたいと思う。もう一度、意識の拡がりを確認したいと思う。



次の花火が打ち上げられる。もう一度深呼吸をする。



だが、やがて、この時間が長くは続かないことに気付きはじめる。花火の弾ける輝きを可能にするのは、前もって集められた多くのエネルギー。深呼吸を可能にするのは、そこで吸われるたくさんの空気。拡がるためには、何かが必要なのだ。それらは有限で、私は仕方なくいつもの場に戻る。





こんなふうに、自分の 意識 の拡がりを 意識 できる、ことはそうなくて、いつもは自分の知らないうちに、何かが、誰かが、足音を立てずに、意識の中に入りこんでくる。それに対しては、私は非常に鈍感だという認識だけは何となくある。





ティーブジョブスは、スピーチの中で、こう言っている

君たちの時間は限られている。だから自分以外の他の誰かの人生を生きて無駄にする暇なんかない。ドグマという罠に、絡め取られてはいけない。それは他の人たちの考え方が生んだ結果とともに生きていくということだからね。その他大勢の意見の雑音に自分の内なる声、心、直感を掻き消されないことです。自分の内なる声、心、直感というのは、どうしたわけか君が本当になりたいことが何か、もうとっくの昔に知っているんだ。だからそれ以外のことは全て、二の次でいい。

昔はあったかもしれない意思みたいなものは、何だか無理に自分の意識を拡げようとしていく過程で、誰かの意思の込められた音も雑音も全部自分のなかに浸透させてしまったせいで、もう、どこにいってしまったのかよく分からなくなってしまったような気がする。平凡未満。





きっと今の自分に必要なのは、収縮なんだろうと思う。全ての浸透を拒むことなく、拡張を続けながら、一方でそれ以上の収縮をしていくというのは、決して簡単なことではないと思うけれど、それを乗り越えて、この毎日という日を何かに支配されることなく、淡々とおくれるようになりたい。明日があってもなくても。