郵貯ってなんだろう?(いけてない仮説)



最近読んでいる何冊かの本の影響なのだが、支離滅裂なものほど、おもしろいと感じるものはない、なんて思ったりする。ときどき。どこかの誰かが、私たちの知りえない累積から何かを束ねて、私たちの前に何かを差し出す。私はそれに釘付け。

しかし、その釘はいともたやすくはずれるものである。長くは続かない。たった、1回きり。2度と訪れるものでなければ、2度笑えるものでもない。そして、その意味をその場で考えるのは無駄なのだと思う。解決するとすれば、それには、その事象を心の奥に潜めたまま、経験を重ねるというか、時を経なければならないような気がする。





逆の意味で、最近、おもしろいなと思ったもの

  • 1 2006年度中に郵便貯金の預入限度額を700万円に引き下げます。
  • 2 同時に、名寄せを徹底し、預入限度額を超える分については個人向け国債などに振り替えます。
  • 3 その後、預入限度額をさらに500万円に引き下げます。
  • 4 8年以内に郵便貯金220兆円を半減させることを目標とします。

これは、どこかの誰かが、私たちの知っている累積から何かを束ねて、私たちの前に何かを差し出した、、、という感じがする。つまり、支離滅裂ではない。従って、この場でいろいろと考えるのは無駄ではないし、その余地があるのではないかと思う。ただ、私は今までこの辺の文脈をきちんと追えていないから、積み上げ的な話は書けない。だから、今のところ物事の解決には何の役にも立たないというのは、よく分かる。が、政治学社会学・経済学・等々にそれなりに疎い無党派層の一市民が今まで見てきた実感、それは論理にあまり基づかないけれど、それを感覚的でもいいから書いておかないと、それこそ、私の引き出しはいつになっても増えない気がする。選挙までに色々と調べて、きちんと訂正していくことを前提に、今思うことを書いておく。





まず、預入限度額を700万円や500万円に引き下げるという話ですぐに連想したのは、1000万円ルールが制定されたときのことである。

あのとき、何が起こったのか?私は、そんなお金持っていないから、何も変わらなかった(笑)。まわりの行動はと言えば、あのときは別に限度額ということではなくて、そこに保証があるかどうかというだけの話だったので、何もしなかった人も多かったが、何かをした人たちが何をしていたかといえば、とりあえず安全そうな場所に移していた。私の書いていることの偏りは、私自身が東京にいる点が最も大きいと思うのだが、地方では、郵貯に預けた人も割といるのかもしれない。そこは実感がないところなのでここでは東京の話に限定するが、何が起こったのかをまとめると、ちょっと不安そうな銀行からちょっと安全そうな銀行にお金が移ったということなのだろう。

ちょっと不安そうな銀行は預金が減ってどうなったか?本当にやばげであった銀行を除けば、別に何も起きてなかったのではないか?今は、貸し出すお金を増やすような必要があるわけでもないだろうし、個人から預金を集めなくても、どっかの銀行が余剰資金をたっぷり用意していた(今もしている)から、そこに苦労はなかったのではないか?

寧ろ、苦労をしたのは、ちょっと安全そうな銀行なのかもしれない、と思う。貸し出すお金を増やせるような状況でもないのに、バランスシートの片方だけがぶくぶく膨れ上がっていく。でも、普通の銀行は、預金いらないです、とは言えない(言わない)。この前、知人がキャッシュカードの磁気がうまく反応しなくなって銀行に行ったら、それなりのお金をとられたとぼやいていたのを聞いて、そのときは「ふーん、そうなんだ」と思っただけだったが、今思えば、預金の原価は結構高いということなのだろう。しかも、キャッシュカード渡すだけではなくて、金利だって少しながらも払わなければならない。ひとりひとりの預金額は微々たるものかもしれないが、それも集まれば、金利もたかがとは言えない額になってしまうような気がする。プロフィットの観点からも、資産と負債のマネジメントの観点からも、微妙、な感じ。

そうやって集まってしまったお金をどうするのか?貸し出したいのは、やまやま、だろう。が、なかなかそうもいかないのではないか?景気の見通しは以前に比べれば格段に良くなったようにも見えるが、まだまだぼやぼやしているし、借りたいという人たちに対して貸したくても、国際的ななんとか規制の足かせがあって、うまく動けない状況なのではないか?

じゃあ、どうするの?と考えたときに、手っ取り早いのは、国債を買うことである。





・・・あ、意味ない。





今回は大きく分けると2つの意味で国債について改革するチャンスではないかと思っていたのに、その一端が折れてしまう。

その一端とは、もろもろの金融機関が資金運用に使う国債の量を適正規模にすることである。

これは一庶民としての直感でしかないのだが、、、景気が上向いているような傾向が見えても、心のどこかでただ純粋に上向いているのとは何かが違う、と思ういくつかの理由のうちのひとつが、日本国債のマーケットはいわゆる市場の論理があまりうまく機能していない、というところにあるような気がしている。(ちなみに、それは、私が昔読んだ日本国債という本だけから感じたことではなくて、昨今のマーケットに関するもろもろの話を総合して感じたことである。)ただ、適正規模って何なの?と言われると、専門家でもないので言葉に窮するのだが、どうも大きすぎるような気がする、というか、、、

お役所の人たちは、ちゃんと適正規模を計算している、と言っているのだが、どうしても私にはそれがうまく飲み込めないでいる。正確には、ちゃんと計算、の裏にある前提がうまく飲み込めない、ということなのだけれど。



ざっと整理すると、うまく飲み込めない前提のひとつめは、借換債が今後も必ず引き受けてもらえる、ということ。今はたまたま引き受けてくれる人なり団体なりがあるからどうにかなっているけれども、いつなんどき、そうでなくなるかは分からないような気がする。ただ、もしかすると、分からないのは、私だけかもしれないけれど。

前提のふたつめは、インフレになるということ。一庶民から見ても、最近のマーケットは不穏な感じがする。そんな中で絶対にインフレになるなんていうことは言えるのだろうか。

しかも、そのマーケットの不穏さというのは、色々な人が知恵を絞ったとしても、制御不能なものから生じているような気がする。例えば、原油にはじまる資源の枯渇、地球温暖化、東京直下型大地震、どうしようもなく溢れる余剰資金。人民元の問題なんてどうでもいいと思えるほど、それぞれの問題が大きすぎる。

こういう非常に難しい(と庶民は思う)前提に対するリスク管理を一体国がどうやっているのかについて、私はあまりにも無知なので、この話題はここまで。





で、国債の話題に戻すと、結局、何故、私が銀行が国債で運用すると意味がないと書いたかといえば、それは国債のマーケットが適正規模にならないからであった。

今の銀行が運用資金を抱えるのではなく、民営化後の郵貯が運用資金を抱えるのなら、低金利国債で運用していては預金者に金利が払えなくなるということを背景に、ある程度リスクを取る運用を厭わないのではないかという気がしている。少なくとも今の郵貯はリスクを何も抱えていないのだから。それに比べて、今の銀行には、別のところで既にリスクをとっているので、逆にリスクをとる余力があまりないように見える。私にはそう見えている、というだけなのだけれど。





それから、国債について改革するチャンスのもう一端の話。これは、上に書いた「少なくとも今の郵貯はリスクを何も抱えていない」に通ずる話なのだが、technoratiとか見ていると、どうやらみんなが指摘していることなので、私がここで敢えて書く必要もないと思う。





銀行にとって、郵貯から流れてきたお金を運用する手っ取り早い方法は国債を買うこと、ということ自体、だいぶ妄想が過ぎているかもしれない。だが、もし、これが全て妄想だったとしても、郵貯の預入限度額を引き下げるという政策は私たちの望む方向へは導いてくれないかもしれない、という不安を消す材料は、今のところ見つかっていない。

因みに、余談だが、これが地方の銀行になると、国債ではなくて、地方債になるのかもしれない。ある意味、地方分権化の第一歩か?とも思うが、そんなことより、地方が破産しないかのほうが心配で、それには、また別の政策を組み合わせなければならないのだろう。





話題を次に移す。名寄せについて。

銀行にいくと、いつも不思議に思うのだが、名寄せしてます、というけれど、本当にできているのだろうか?本気で名寄せするんだったら、預金を申し込むときに書き込むあの紙は、あんなものでは済まない気がする。このゆるーい名寄せは、ある意味故意なのだろうか?

それは、郵貯にしても同じなのではないだろうか、と思う。これから新しく始める分は別として、こんなにたくさんできてしまった口座を、きちんと名寄せできるとはやはり思えない。

ただのシロウトの意見ではあるけれど、名寄せには限界があるように思う。と同時に、名寄せのことがわざわざここに書かれている本当の意味に、私が気付いていないだけかもしれない、とも思う。





そして、もうひとつの話題。預金半減について。

そもそも、今回の郵政民営化は、そういうことが目的だったのだろうか?そうではないことは、この後にこう続く文があることからも明らかではある。

郵便貯金・簡易保険を適正規模に縮小した後は、政府系金融機関との統合も含め、あらゆる選択肢を検討します。

なぜ、まず最初に郵便貯金・簡易保険を適正規模に縮小することからはじめなければならないのだろう。そして、なぜ、その後の選択肢はその後に検討されなければならないのだろう。私のふにゃふにゃした頭では、そこに何の確信も革新も見出せない。

確かに、郵貯簡保も大きすぎる。金融という世界は、規模の論理がそのまま適用できる世界であり、その大きさ故がもたらしてきた弊害は、いたるところで見られるものだ。(例えば、民業を圧迫していると分かっていつつも、ATMを開放せざるを得ない、とか。)しかし、それは結果であって、原因ではない。一庶民からすれば、便利で安全であるものを使うのは当たり前で、何でそんなに便利で安全なものができてしまったのかということを考えなければ埒があかない。そして、原因はどこにあるかと考えれば、社会の常識から考えると、普通の事業会社と同じようにプロフィットの源泉に原因があって、それはつまりBSではなくPLにあるということを意味しているのではないか?プロフィットの源泉については、以前にも触れているので(あまりに薄すぎて誰も気付かないぐらいではあるが)、ここにはもう書かないけれど、とにかく、BSをいくら縮小したところで、事態は何も変わらないように思う。というか、寧ろ、そこから始めることには危険すら感じる。ただでさえ、余剰資金のことが問題になっている昨今の対応としては、どうなのだろう?と。色々な意味で、弄ばれたりしそうで怖い。





・・・と、ここまで書いておいて、こういうことを書くのはどうかと思うけれど、別に私はこの政党のことを支持するわけでも支持しないわけでもない。念のため。





それは、私の心の内が決めること。





東京駅でバスの列に並ぶ人たちを見て、この人たちの思いはどこへ向かっているのだろう、と、今回ばかりはまったくといっていいほど空気が読めないことに苛立ち、山頭火でラーメンを食べ過ぎた今日の私ではなく、

いつしかの参院選での自分の投票がもたらしたこの解散という事態に対し、その歴史的事実にどうやって向き合うべきかぼーっと考えていたら、セブンイレブンに入ろうと思っていたのにローソンに入ってしまって慌てて出てきた今日の私ではなく、





あさっての私が決めること。