いわゆるログ



台風が来た。





外の空気が荒れれば荒れるほど、
私は孤独を感じる。










無力感。





一人では、何もできない。





いつ、その荒れた空気に飲み込まれてしまうのか、分からない。





だから、私は、今のこの瞬間しゅんかんを大切にしたいと思う。










そして、そう思って生きてきた私は、今ここにいる。










でも





今日がいつもとすこし違うのは





過去や未来も含めて

二度とおとずれぬこの瞬間を
形に囚われず
型にも囚われず

この瞬間を構成する全てを、ありのままに受け入れたい

と感じたということ。





それが、たとえ、孤独なことであっても。
無力であっても。















こんな変化に気付いた誰かは、少しだけ笑って、こう言った。





「・・・・・」





その言葉の意味を私は知らない。





ただ、そこには、私が今まで知ることのなかった

葛藤と恐れが

あるような気がした。





























ログはおしまい。以下、雑感。





























私たち(この「たち」がどこまでを含むのかは私にもよく分からないのだが)は自然と一緒に生きてきた。そして、その中で生み出された知恵は、私たちの生活のあらゆるところに残っている。ただ、残っている、といっても、(都市に住む?)私たちと自然との関係は、昔とは、もう随分と異なってしまっているから、知恵の何もかもがひっくるまって今も根付いている、というわけでもないように思う。要するに、私が思ったのは、形(型)だけ残ったものもかなり多い、そして、(みんながそうなのかはよく知らないが)私自身はその形(型)にものすごく縛られがちだということなのだけれど。





その最たるものが、バランス感覚だ。





言葉の聞こえはいいが、形だけのバランス感覚ほど、空ろなものはないように思う。にも、関わらず、私は気付くと無意識にそれを振り回していて、自分でもうんざりする。そういう自分とちゃんと決別することができるのか、正直、自信はないのだけれど、とりあえず頑張ってみるのしかないのだろう。





バランスをとる、というのは、自然との向き合いでとても大切なことだったのだろう、と思う。

自然は、人間と違って、普段から無茶はしない。だから、そこに無駄な統制は必要ないし、逆に、私たちは無茶をしないように私たち自身に若干の統制をかけなければならない。

ただ、自然だって無茶をすることはある。そんなときは、いずれにしても、私たちは、どのみち無力なのだから、それに立ち向かってはいけない。(但し、私たちの無茶から引き起こされるものを除いて。それらに対しては、何らかの責任を果たさなければならないと思う。)

その代わり、人間は人間だけで、ときどき、意識的に無茶をする場を持った。そこには、何かを開放する、という重大な意味があったのだろう。今はそれが形だけ残り、そこで変な暴れ方をする人たちもいる。





バランスの話に戻すと、そういうバランス感覚というのは、あくまでも、自然との向き合いという意味で培われたものであって、普通に考えると、それ以外のこと、例えば、人間の作った人工物(あるいは人工的な場)にそのまま適用できるわけではないように思う。

それにも関わらず、私たちは、人間の作った人工物(あるいは人工的な場)に、そういう自然との向き合いで培ったバランス感覚(の型)を適用しているような気がする。





そもそも、自然に対するバランスと、人間の作った人工物(あるいは人工的な場)の中でのバランスには、大きな違いがある。

自然は、バランスがおかしくなりそうになると、サインを出してくれる。そのサインというのは、脅威のようなものであって、その脅威を事前に察知しながら、慎重な生活を送るのだろう。ある種の緊迫感。

一方、私たちのような人間の作った人工物(あるいは人工的な場)もサインを出してはくれない。

徐々には。










そういえば、私はコンピュータシステムを作るときに、こんなことを思っていた。

システムを作れば、手を動かす人が減る。
手を動かす人が介在しないということは、システムが人と同じように自律的に学習する機能を備えていない限り、その業務はそこから発展することがなくなる。発展しないだけならまだしも、場合によっては衰退する。さらにひどいときは暴走する。

システムという形だけが残った状態。

そのシステムが、どれだけの緊迫感やらリスクやら使命やらを背負っているかは、作った人たちがいくら説いても、その想いは永遠には引き継がれていくことなく、いつかは途切れてしまう。

だから、ある種のコト、つまりはそういう想いを込めなければならぬ部分、は、システム化してはいけないのだ、と。

もし、そんなシステムを作ってしまったら、そのシステムを止めるために、外の力を借りるなければならなくなる。
そこに、どんなリスクが伴おうとも。

システムの内側には、止めてはならない理由も、止める理由も、書いてはいないのだから。










今思えば、システムは徐々にはサインを出してはくれないのだ、ということを直感的に感じていたのだろう。




















更にさかのぼること、今から10年前。



ひとつ、、、。今思えば、私は自分たちの社会システムの欠陥をブラウン管の先に見ていた。機能しないバランス。
あれからもう10年も経つのに、バランスとは違う枠組みが、未だに私の心に浸透していない。自滅のカードは未来の枠に貼りついたまま。でも、それでも、少しずつ、何かが変わりはじめているような気がする。
社会システムも、少しずつ、何かが変わりはじめるのだろうか?



ふたつ、、、。その隣のブラウン管では、いろいろなものが生まれてくるコンピュータネットワークシステムを見ていた。私は、ただ、無邪気にリンクスで遊んでいた。
あれから10年が経って、システムはサインを送っていなくても、そのシステムの中の人たちが、少なからず何らかのサインを送ろうとしているように見える。
システム化してはいけないものとは何か?想いの込められたデザインや想いの込められたOSではないことは確かだ。想いが消えても残り続ける、不可逆な仕組み、ではないか?
想いのあるうちに、私たちは何をすべきなのだろう?



これらの問題は、バランスという言葉に囚われず、葛藤と恐れを乗り越えて、問題を構成する全てをありのままに受け入れても、簡単には解決しないだろう。けれど、少なくとも、そこには責任が生じて、そこから逃れることは、二度と許されなくなる。それに耐えうる強さを自分の中で育てるしかないのだ、と思う。




















なんだかつらつらと色々書いてしまった。この雑感は、誰かの考えた型の束、でしかない、という認識はあるけれど、どうしても無理やりにでも束にしてみたい(そこには論理的にはあり得ないジャンプを多分に含む)という衝動に、私という人間は耐えられないらしい。あまりいい意味での無茶ではないと知りつつも。