建前と本音



今日この頃の悩み。本音、というのものの全てが難しくて、先に進めそうにない今日この頃。その意味、その扱い、その場所。
そもそも、私のような子供が扱えるネタでもなく、まともなことが書けそうにないと知りつつも、頭の整理のために、少し書いてみることにする。行き当たりばったり的に書くので、現時点では、私自身ですら、今日、何が書かれるのか、想像もつかない。





本という漢字の字源は、木をもととし、一はその根もとをさし示すことであるという。

一方、音という漢字の字源は、というと、少し複雑なので、漢字質問箱LOGから引用させて頂く。

 「音声」と熟しますが、そもそもは「音」は人間のこえを表し、「声」が自然界のおとを表します。
 その例として、映画「Sound of Music」の中国語の翻訳は「音楽之声」であったと思います。つまり「声」=Sound。

「言」・・・・ キッカリとけじめをつけた、明確な発音。
「音」・・・・ モグモグと口ごもってこえだけ出す動作。
「声」・・・・ 物をカンとたたいて耳に聞こえてくるおと。

 「言」の字は、「辛(はもの)+口」。辛とは「千枚どおし」のような尖刀(とがった刃物)。この刀はクッキリと切れめをつけたり、模様を刻みこむのに用いる。そこで「辛(はもの)+口」で、キッカリとけじめをつけた明確な発音を表した。

 「音」の字は、言の字の下部の口印の中に「、」印を含ませたもの。口の中に何かを含めば、モグモグと口ごもって、声帯からこえが出るがキッカリとした発言はできない。ただ「ウーウー」と口ごもってこえだけ出すのが音。その動作は「暗誦」(あんしょう)するさいにいちばんよく現れる。試験勉強で要点を暗記するには、いちいち明確な言を発せずに、あいまいにこえだけを出す。音 ─ 暗は全く同系のコトバで、はっきりしないという意味を含む。

本と音の語源をあわせてみると、「地下にのびた根っこをはっきりとしない声で出してみる」ということ?



この語源をもとに、少しずつ、紐解いてみる。



地下、といえば、昔、私はこんなことを書いた。

地上と違って、地下というのは、とても怖いところだ、と、私は思っている。


地上は、いわば日々積み重ねられた歴史の一番表面であって、私たちはそこで今を生きている。言い換えると、私たちはそこで行動し、そして、日々積み重ねられたものから生じる、ある種の事象を誰かと共有している。共有とはいっても、同じ場所で同じ時間を少しだけ同じ感覚で共有しているだけではあるが、それでも、私たちは とある場所の今を知っている といっても、あまり問題にはならない気がする。


一方、地下は、日々積み重ねられた歴史そのものであり、私たちはそこに生きているわけではない。にも関わらず、幸か不幸か、私たちはそれらの一部を時空を超えて共有することができる。ここでいう共有は、上に記した今の共有とは全く別のもので、異なる場所で異なる時間を異なる感覚で共有することになる。それは、ある場所のある過去の一時点の今を知っていることにはならない だろう。但し、今の今を論理的に説明するための論拠になることはあるのかもしれない。

一言で言い切れる類のものではないのだが、無理にでも言い切るとすれば、地下の本当のところはよく分からない、ということを書きたかったように思う。正しいかどうかは別として、「地下にのびた根っこ」を私の感覚に従って表現してみると、それもまた、よく分からない、私たちが簡単に見ることのできるものではないのではないか、と思う。それは、自分自身の根であったとしても。他人の根はなおさらで。



話を先に進めるが、次に、そんな根っこをはっきりとしない声で出してみる、ということについて考えてみる。
根っこが、私たちが簡単に見ることのできるものでないとすれば、当たり前のような気もする。なぜなら、言が「キッカリとけじめをつけた、明確な発音」を表すのならば、私たちは言をもってしてその根っこを表すことができないからだ。そこは、言葉の至らぬ部分を、身体能力を持ってしてカバーする、つまり、それは声帯という素晴らしい楽器で、私たちは自分自身が簡単には表現できない機微を表そうとしている、ということなのではないか?





・・・と、ここまで書いてみて、ふと思った。





もしかしたら、「本音」の反対は「建前」ではなくて、分かりやすくは「言葉」なのかもしれない。

  • 根っこを表す「本」と、もごもごした「音」
  • はっきりした「言」と、端をを表す「葉」

とはいえ、「本音」の反対は「建前」というのが普通なのであって、それを考えると、建前と言葉の意味が被る部分が、本音の反対にあたる、ということなのかもしれない。



本音と言葉。



あまり適切な例ではないかもしれないけれど、私は、小泉さんの話は、あまりにも「キッカリとけじめのつけた、明確な」言葉が多くて、この人の本音は一体どこにあるのだろう?というのがどうも最後までよく分からなかったな、と思ったりしている。私のような人間に本音など分かるはずはないというは承知の上だし、本音を知ることと国政を委ねる相手を決めることは全く別物であるということも承知の上ではあるのだが。





長くなってきたので、もう終わりにしよう。





そもそも、このお題目を選んだ理由というのは、アメリカ人の楽観主義をどう扱えばいいかというところで、散々悩んだ挙句、この問いに辿りついてしまったというのが本当のところなのだが、そこまで書ききるには、この話を土台に、もうワンステップ必要そうな気がしている。

よって、今日は、ここでおしまい。