秋の音を探して



前のエントリにコメントを書きながら、そもそも秋の音とはどういうものだろう?と思った。




音楽を聴いてみれば。
作曲家やアレンジャーや演奏する人の想い・メロディ・和音・調・音色・録音場所・エンジニアの想い・ライヴの雰囲気・果てはアルバムジャケットまで、全てが絡み合って、私たちに秋を提示する。
そして、私たちは、その中に秋を感じ、秋に浸る。


ただ、何を秋と感じるか、というのは、人それぞれ。しかも、確固たるものでもなく、一秒一秒変わる。
それでも、少し、人と被る部分もある。自分の中で、いつ何時も、あまり変わらない部分もある。
























ちなみに、今日の私が「秋らしさ」と感じるのは、この辺。




アコースティック系のギターと、2人のほのぼのとしたデュオが、秋らしさを感じさせる一枚。


銀杏並木の坂を黄色い葉がひらひらと舞いおりる。その下を通り過ぎるのは、2人の小学生の女の子。少し大きすぎるランドセルの脇で、貝がらのキーホルダーが揺れている。坂の上のレストランのブロック塀にほおづえをついたまま、私の眼は彼女たちを追っていた。
「あぁ、あの頃に戻りたい。」
とおいとおい昔の、学生時代のひとこま。
まぁ、東京も、悪くない。




キースを落ち着いて聴けるのは、秋以降、という気がする。モンクの場合は、難解さがそう思わせるのだけれど、彼の場合は、一音一音の力?みたいなものがそう思わせるのかもしれない。
ECMの録音は、私たちに、澄んでひろがる秋の青空を想像させる。キースのトリオは、その青を少しだけくもらせる秋の日差しを描く。ソロだと透明感が増して、冬に近づきすぎるから、トリオのほうが秋らしい。




佐藤竹善さんと塩谷哲さんによる選曲が、何よりも素晴らしい一枚。一曲一曲の持っているしなやかさ、広さ、心を満たす感じ、でも、ちょっと胸を突かれる感じ、くぅーっと体の前面を押される感じ。それは、秋の豊潤と愁いそのもの。


このアルバムを聴いていると。
秋は、私たちの目の前に広がる大きな大地。そう、冬なんてずっと先さ。って、少しだけ冷たくなった風たちに、言われているような気がする。




バンドネオンの音というのは、ちょっと言葉にはできないのだけれど、まさに秋らしい音ではある。アコーディオンともピアニカともバイオリンとも、明らかに違って。
ちなみに、ピアソラのタンゴというのは、赤と茶色を主体にしたステンドグラスに長い日差しが差し込んで、その陽のもとにみな踊る、という感じなのだけど、それは、私のちょっとおかしな共感覚のせい?




トミフラの言うまでもない名盤。私は、晩年の演奏のほうが好きだけれど、その円熟に向かう若さには、秋という言葉がぴったりなのだ。


秋の夜長。私たちはコーヒー片手に、いろんなことを語りあった。そこに、甘いケーキはいらなかった。話は充分に甘かった。適度に炒られた栗のように。
書き留められることはなくても、炭になって残りそうなくらいに、それらの話は、私の心に刻まれる。
明日の朝、私は窓から落ち葉に向かってさけんでしまうだろう。そのすべてを。秋の冷たい空気がそれを拒絶しようとも。





















ここまで書いてきて、気付いたのだけれど、私という人間は、いつでもどんなときでも、こうやって音楽と会話することで、いろいろな局面をどうにかしてきたのだろう。
どうしたらいい?とか。もう泣きたいとか。今日は楽しかったとか。
私がそう語りかけると、音楽は、私の心に、形にならないけれど、はっきりと手に触れることのできる何かを返してくれる。
そしてそれを、ひとつずつゆっくりと言葉に落としていけば、ひとつのメッセージが生まれてくる。





それは、明日のためのとっておきの勇気。





時計はまた進む。私がどんなにあがいても、私がどんなに来ないでと念じても、明日はやってくる。私にできるのは、とっておきの勇気を胸に、いつもどおりに、朝を迎えることだけ。