ゾンビ・スワップ

心の起源 心のはたらく「場」(木下清一郎著) より

離散性と連続性
ところが、離散したものを連続化するといってもそう簡単なことではない。この二つはまったく対立するものであって、そのあいだには越えがたい溝が横たわっている。ふたたび時間を例にとってみるならば、瞬間という離散的な部分を堆積していたはずであるのに、それがいったん連続的な時間になってしまえば、それが無限に分割可能になる。するとここでたちまち、無限に分割できるもの(時間)が有限な部分(瞬間)の総和であるはずがないという矛盾に陥ってしまう。有限から無限へはそのまま移行できない。離散と連続のあいだを隔てる溝とは、「無限」という越えがたい深淵であった。

これを読んでいたら、昔のことを思い出した。





通常の(私たちが普段接するような)金利計算における時間の単位は、1日である。つまり、時刻tは離散的である。

  • t期間後の将来価値は、(1+r)^t


しかし、金融の世界では、時刻tを連続値とみなす、連続複利での金利計算をよく利用する。

  • t期間後の将来価値は、e^-r't



私は、何故わざわざ連続複利を使うのか、そこに問題はないのか、色々な人に聞いてみた。しかし、返ってくる答えは、誰に聞いても「(微分したり積分したりできて)とても便利だし、通常の金利計算と等価に扱っても問題ない」というものだった。


そして、1年後、私は後輩に全く同じ質問をされた。結局、私は受け売りで「とても便利だし、通常の金利計算と等価に扱っても問題ない」と答えたのだけれど、当たり前のことながら、ものすごい怪訝な顔をされた。










・・・今思えば、私は、あのような答えを返してはいけなかったのだ。










私は、普段、連続を離散にするという文章を見るとき、「何かが欠ける」という状況をイメージしている。
一方、離散を連続にするという文章を見るとき、「何も欠けない」という状況をイメージしている。


それらは、連続は細かく、離散は荒いという観念から生まれてくるものである。
さらに言えば、その観念は、連続のグラフ(正規分布みたいなもの)と離散のグラフ(二項分布みたいなもの)から生まれてくるものである。










しかし、よく考えてみれば、離散を連続にするときにも、「何かが欠け」ている。










それは、「無限」が生じることによる、「現実」の喪失である。










連続で捉えた途端に、それは、現前するものではなくなるのだ。


それが、どういう影響を与えるのかは、今の私にはよく分からない。
けれど、そこにある種の気持ち悪さが残るのも事実だと思う。


時々、お金がお化けみたいに感じることと、もしかしたら、何か関係しているのかもしれない。(とか書いておきながら、全然関係していないかもしれないけれど。)


それについては、おいおい、考えていこうと思う。










まとめ。


今回のことでよく分かったのは、図やグラフで表せるものに接するとき、私は、そこに大変な欠落が発生することを忘れてしまう、ということである。


そもそも、この世の中では、何かを得たら、何かを失う。
ということを、忘れないようにしようと思う。


あまりにも当たり前すぎる結論で、ほんと自分が情けなくなってくるが........。恥ずかしい。




















余談。


今日、スタバに行ったら、セロニアス・モンクの曲が流れていた。
久々に家でも聴きたくなって、今、1年ぶりぐらいに「THELONIOUS IN ACTION」を引っ張り出して来て聴いている。


この歴史的名盤に残された、彼のテクニカリーな演奏やハーモニー解釈は、本当に素晴らしい。


でも、どんなに素晴らしくても、私がしばらくこれを聴く気にならなかったのは。
その素晴らしいテクニカリーな演奏やハーモニー解釈によって、昔ながらのジャズが持っている「分かりやすさが消えてしまった」から。そして、そういう難解な音楽から少し離れてみたい、と思ったから。


楽譜上だけを見れば、♪♯♭、コード記号、たくさん色々なものが増えただけで、「何も失われたようには見えない」のだけれど。



it don't mean a thing if you ain't got that swing...
いろんなものを失って失ってみたら、残るのは、ただ、スウィング。だけ。
そこまでくれば、もう、失うものは何もない。心地よい時間だけが残る。