みずほ証券の件の、雑感。その2。



きのうの続き。みっつめ。





で、みっつめは、ほんと変な話なのだけれど、最近、
小さなリスクが減って、大きなリスクが増えてたり、
小さなミスが減って、大きなミスが増えてたり、
小さな勘違いが減って、大きな勘違いが増えてたり、
小さないざこざが減って、大きないざこざが増えていたり、
何かよく分からないけれど、ボラが大きくなっているという感覚がある。
ちょっとタメすぎる?かも。



それって、ごくごく単純に言うと、見えすぎる世界の弱点なのかもしれない。



ふと、村上春樹さんの『スプートニクの恋人』の一節を思い出す。

わたしたちの中には、「知っている(と思っていること)」と「知らないこと」が避けがたく同居している。そして多くの人はそのふたつのあいだに便宜的についたてを立てて生きている。だってその方が楽だし便利だから。

人間は、便宜的についたてを立てていて、でもそれは、いつでも立てたり取っ払ったりできる。

しかし、コンピュータシステムというのは、そうはいかなくて、動じないタイプのつい立てを立てなければならない。
私たちは、その一瞬でもいいから既知と思い込み、プログラムを書くしかない。



そして、その結果、その時点の既知は動かぬ形となり、アナログ的作業の抱える小さなリスクは確実に減らされる。
でも、それは、既知なふり、とか、時が過ぎれば既知じゃなくなる、とか、部分的既知なだけ、とかそういうことも多いわけで、本当は既知なんかではない。
だけど、一見すると、そうは見えないから、私たちはその、未知であるという事実に鈍感になったり全く気付かなくなったりしたまま、すごい勢いで突進する。
結果として、未知ということを知っていて、ちょっとずつ状況を確認しながらアナログ的作業をしていたときよりも、突進してしまう分、大きなリスクは増える。
システム化された部分が増えた今の時代というのは、みんな、かなりのリスクテイカーになっているってことだ。
良い意味でも、悪い意味でも。
話はややそれるが、少なからず、こういう時代の流れでは、保険の充実は必然的なことなのだろう。










話を戻して、では、私たちは、大きなリスクを避けるためにどうすればよいの?と考えると、それは、アナログ的作業に戻る、というものでもないだろう。
多分、作業はデジタル化、思考をアナログ化、ということになるのかな。




しつこく、同じ本から、またまた引用してみる。

 考えてみれば、自分が知っている(と思っている)ことも、それをひとまず「知らないこと」として、文章のかたちにしてみる――それがものを書くわたしにとっての最初のルールだった。「ああ、これなら知っている。わざわざ手間暇かけて書くことないわね」と考え始めると、もうそれでおしまい。わたしはたぶんどこにも行けない。たとえば具体的に言うと、まわりにいる誰かのことを「ああ、この人のことならよく知っている。いちいち考えるまでもないや。大丈夫」と思って安心していると、わたしは(あるいはあなたは)手ひどい裏切りにあうことになるかもしれない。わたしたちがもうたっぷり知っていると思っている物事の裏には、わたしたちが知らないことが同じぐらいたくさん潜んでいるのだ。
 理解というものは、つねに誤解の総体にすぎない。
 それが(ここだけの話だけれど)わたしのささやかな世界認識の方法である。

結局、こういう世界認識の立場に立って、自分が知っている(と思っている)ことをひとまず「知らないこと」として、文章のかたちにしてみるツールのひとつがブログなんだろうな、と思う。
少なくとも私にとっては。










ちょっと勇み足で書いてみるとすれば、Web1.0というのは、立てられそうなつい立てを立てて、知っていることと知らないことを誰かが分けてみる作業を助けるサービスのかたまりであったのだろう。テストみたいなもの?
そして、Web2.0 というのは、そのちょっとその先を行っているのだろう。もう一度、立てたつい立てをみんなで倒してみる、という作業を助けるサービスのかたまり。ブログとか。つい立ての向こう側に追いやってしまったものを再点検する、というか。
そのつい立てを倒すという作業は、Web0.0の世界、つまり、アナログな作業しかできないといった世界とか、そのために発生する受動的なリスクを負わされるような世界とかに戻るということは意味しない。そうではなくて、そのようなリスクからは開放された上で、何かのために能動的にリスクを負えるようになるための助走期間。
ということは、助走期間が終わったときに、Web3.0が見えてくる。
私たちは、Web2.0 が持っている、つい立てがなくなることによる、何か後戻りしたような感覚に囚われることなく、先に進めばよいのだ。きっと。
何か、暴論ではあるが。