消費について

私たちは、色々なものやサービスを消費して生きていて、故に、消費者、コンシューマーと言われたりする。
最近は、そのコンシューマーが広く世の中に情報発信するようになった。ブログなどのコンシューマー・ジェネレーテッド・メディア、いわゆるCGMを通じて。
結果として、私たちは、消費するだけではなく、消費される側にもなったのだ。自分たちの発信した情報を消費される、という形で。



ちょうど半年前ぐらいに、私は、「ブログを書いていると、何となく、身が削られていくような感じがする。」なんてことをこのブログの中に書いたけれど、あれは、結局、得体のしれない何者か(何者、といっても、別に人をさしているわけではない。敢えて言えば、スキームのようなもの。)に自分が消費されてゆくことへの恐怖だったのではないか、と、今は思う。



自分が消費されてゆくことへの恐怖、というのは、言葉遊び的には簡単にかけてしまうのだけれど、このことをきちんと説明するのは、今の私には正直難しい。消費されてゆくという感覚があることは事実で、そこに恐怖があることも事実なのだが、その結びつきをきれいに解き明かすということは、今の私にはできていない。



まぁ、こういうタメな感情の話は置いておいたとしても、別の問題として、現前する、リアルな人による消費への恐怖というものも存在しているのだろう。消費という事実はひとつの言葉で表せても、実際には消費には色々な*やり方*があり、それは消費される側からはコントロールできない場合も多い。幸いにして、私はまだそういう局面に陥ったことはないのだが、私たちは消費される立場に立つ以上、現状ではそのリスクを負わねばならない状態にある。その辺に対しては、もしかしたら、今後、何らかの形で仕組が整備されされていくのかもしれないが、安易にすれば、また、せっかく形になりそうだった何かが殻に閉じ込められていくような、隠されていくような状態になるわけで、結局は、そういうことが人そのもの以外の「仕組」に解決できるものであるのだろうか、とも思ったりはする。










なんかうまくまとまらないし、おかしな文ではあるけれど、とりあえず書いてみた、ということで。