分かり合えなさ


いま、7年振りぐらいにノルウェイの森を読み終わって、ふと、昔よく遊んだ、どんぐりの森のことを思った。川のそばのどんぐりの森の夜闇の深さは、とても怖くて、それは、今、私がノルウェイの森を読んで感じた、近づき難さに似ていた。



その怖さや近づき難さを敢えてはっきりとした言葉にしてみるのなら、それは、ある種の絶対的なぬくもりと、その裏側の絶対的な分かり合えなさのセットみたいなもの、ということになるように思う。



そして、それは、リアルな都会の闇を揺らす風の中にはないように、私には感じられる。



そんなどんぐりの森も、今はもうなくなっている、って、今日、知ったんだ。何かは壊れていくし、何かは生まれていくんだ、何も分かり合えないままに。それが、今の私はとても怖い。










ノルウェイの森のことに話を戻そう。



さっき、私は、ノルウェイの森を読み終わったのだけれど、ふと、以前のエントリで書いた、

村上春樹さんの本のテーマは「身近にある、深い裂け目」ではないか?

という内容は、間違いであるような気がした。(お前は何回訂正したら気が済むんだ、とか言われそうなのだが、今となっては、それはごめんなさいとしか言いようがない。)



我らの時代のフォークロア――高度資本主義前史』の以下のくだりは、特に、私にそう思わせた。

いつの時代でもそうなのだけれど、いろんな人間がいて、いろんな価値観があった。でも一九六〇年代が近接する他の年代と異なっているところは、このまま時代をうまく進行させていけば、そういう価値観の違いをいつか埋めることができるだろうと我々が確信していたことだった。

この文章を読んで、私は、「価値観の違いを埋めることなんてできない」という文章の中にある「分かり合えなさ」が、村上春樹さんの本の根底に流れるテーマだったのではないか、と思った。(と、書いてみたものの、分かり合えないことが真なら、こういうふうに他人の文章について書くこと自体もちゃんちゃらおかしい。ただ、それを言ってしまうと何も書けなくなるわけで、とりあえず、真かどうかは別として、あくまで私の仮説ということで、話を先に進める。)



簡単に言うと、どこまでいっても、真に孤独な感じ。



ただ、頭では孤独を理解していつつも、やっぱり孤独にはなりたくなくて、分かり合いたいと思ったりもする。でも、真に分かり合おうとしてみれば、分かればわかるほど、結局は分かり合えないことを知るだけ。それが分かるだけに、その結論を恐れ、苦しんだりもする。でも、幸いなことに、私たちはそんなときに分かり合おうとする思考回路を停止させる手段というものをきちんと持ち合わせていて、それは、(昔のエントリのなかで私がセーフティネットと表現した、)ぬくもりとか笑いとかそういう類のものなのではないかと思う。