1960年代の話 続き

続き、といっても、かなり昔に書いた話の続きです。



高度資本主義前夜、つまり1960年代は、他人との分かり合えなさが決定的になった時代、という認識でいたけれど、ふと、「同時に、その一方で”私”という他人と”自分”の分かり合えなさに気付きづらくなり、そのことによる”自分”の”私”への影響力が決定的になった時代」という認識をしたほうがよいのではないか、という気がしてきました。



もう少し分かりやすくいうと、それまでの時代は、分かり合えなさを普通に自覚していたので、むしろ、”自分”の関与が限定的であったのが、その頃から、”自分”が”私”とある程度同一視されることで、無意識のうちに”自分”に影響されやすくなったのではないか、ということです。



結局、歌の悩みも仕事上のとある困った話も村上春樹さんの話もこのブログの問題も、あなたも気になるけど私も気になるばなしも、ぜーんぶこの話の延長上にたどりつこうとしているような気配もあるのですが、そこの扉を開けるには、もう少ししっかりとした理屈の基盤が必要だと思うし、こんなところに書いてよい話が繰り出されるのか自分にもまだ見えてないので、今日はこの辺でやめときます。