ハピネスってなんだろう?



真性引き篭もり 人を幸せにするゲーム より

幸福とは結果である。

つまり、幸福である人間の過去の人生における全ての行動は正当化される。
失敗も恥も失恋も、後悔も懺悔も愚かさも、「それらがあったからこそ今の幸せがある」と解釈する事が出来る。ゲームであれば、「ゲームがあったからこそ今の幸せ、今の人生がある」となるのである。

「それらがあったからこそ今の幸せがある」、つまり幸せとは過去に蓄積した何かの消費行動なのだと思う。ゲームで遊ぶ時間であったり、ゲームを買うお金であったり、他人とコミュニケーションをとらずに自分のことだけを考えていればいい状況であったり。無論、そんなことばかりではなく、素敵な映画を見に行く時間だったり、美味しい食べ物を食べるお金であったり、くだらないのかくだらなくないのか分からないようなことをみんな真剣に話してお腹が痛くなるほどに笑っていられる状況だったり。それらは、過去に働いたり収集したり築き上げたりしていなければ、手に入れることができなかったものたちばかりだ。





少し話はそれるが、これお金の話と結びつけて考えてみると、お金ってやつは本当に便利だと思う。過去に蓄積してきた、受け取り可能な幸せが数字でちゃーんと見えるのだから。

でも、便利だからといって、みんながみんな、お金で全ての幸せを手に入れようなどと考えたときには、この世の中おかしくなってしまう。生理的欲求、安全と安定の欲求、所属と愛の欲求、承認欲求、自己実現の欲求.......これら全てをお金で手に入れようとしたら、いかほどのお金が必要か。お金というのは、誰かが引き渡し、誰かが受け取り、ぐるぐると回り回るものであるが故に、お金で全ての幸せを得る人たちがいれば、その裏で、お金を失う人たちもたくさん現れてしまうのだ。





そういえば、資本主義創成期を生きたポウプは、人間論のなかでこんなことを書いていた。

「然し時として善人は飢え、悪人は飽食するではないか。」
これは異なことを。善の酬いはパンだと言ふのか。
パンは悪人も受けて然るべきもの。骨折りの代償だ。
悪人もあるひは大地を耕し、海に挑み、
愚かにも王のために戦い、利得のために水を潜るとき、パンは当然彼のものだ。
善人とても心弱く怠惰な場合もある。
彼が多くを望むのは正しくない。心の満足をこそ求むべきだ。

パンを食べるというのは、過去の骨折りによって得られたものの消費行動であると考えれば、この頃から、私たち人間と幸せの関係は変わっていない、のだろう。





ちなみに、私は、といえば、正直、悟りは開けていないので、幸せには適当に手をのばす。きっと。