切ないというか・・・



うまく、端的な言葉では表せないのだけれど。





悲しさでもない、怒りでもない。

恋愛で感じる切なさっていうのは、あくまでも自分が思う気持ちが通らないというか、それは自分が思わなければそうはならない、かなり能動的な要素を含んでいて、それはそれで切ないと言えば切ないけれど、そういうのとは違う。
自分が予期しないところで、相手が急にはさみを用意しはじめる、みたいなとでも言えば良いのでしょうか。受動的にしかなることのできない切なさ。

自分自身、こういう切なさをどこかで感じているなと思っていたら、思い当たることを見つけました。自分が普段見せない自分にまで、気付いたらはさみが及んでいたという状況。匿名ブログとは言え、あまり具体的なことは書けないわけですけれども。それはたいがい違う文化圏みたいなところから飛んできて、私は相手に伝える手段がありません。でも、相手にはそういうことには全く気付いてもらえないわけです。

宗教みたいな、もうそれは触れちゃいけないって明らかに分かるようなものだったら分かりやすくていいのですが、もっと境界線がないようなもののときに、見えないものを見ることができるという能力によって全てを見るのか、能力がないから見るのを諦めるのか、どちらかしか選べない状況なのに、見えたつもりになって行動するなんていう状況をよく見かけます。実際に面と向かって接している人でさえこういうことは十分あり得る(あり得た)ことなので、もし、これがネットだったりすると、ほぼ言葉だけが流通する状況は普通に考えて既に相当な情報量が失われており、そのようなことが生じる可能性はかなり高いかもしれません。というのは、メッセなどでやりとりするときに、私も、ものすごく気をつけなければと思ったりするわけですが。

ちなみに、見えないものを見ることができる能力を持った人によってはさみが使われるというのは別にどうでもよくて、そのときはとても痛いですが、そこにはやりきれない切なさとかは残らないです。

どうも、うまく、この切なさのようなものが表現できないのですが、自分ではどうしようもないという意味では、世知辛いみたいな言葉にも少し通じるところがあるかもしれません。





ついでに書いてしまうと、今回の件で、家の中にこういう気持ちを表現したような本が1冊もないということに気付き、自分自身の感情の深みのなさをそれとなく思い知らされて・・・。恋愛で感じる切なさっていうのは村上春樹さんの本とかを筆頭にその辺にもろもろたくさん転がっているのに、こういう切なさについては何のリファレンスもないということは、自分自身がこういう受動的な切なさを感じたときに、無意識的に、どうこうと対処しようとせずに目を背けたか殻に閉じこもったか、そういうことしかしてこなかったことの表れのような気もします。





そういえば、CDの山の中にもあまりないですね。恋愛でもなく、明確な対立概念があるわけでもなく、というのは。

やり切れない切なさみたいのをわけもなく感じるのは、『Going Going On』あたりでしょうか。日本の切なさとブラジルのサウダージが混ざったような。村石雅行さんの繊細なハイハットワークとか、私がよく聴いていたころの精神状況によるとか、もろもろ込みということで。





オチも結論もないですが。ただ切ないような泣けるような話。