猫にかつお節

テロに関する一連の報道に触れたことによって、最近のメディアの傾向みたいなものが、少しだけ認識できるようになった気がします。



圏外からのひとこと エートスの転換を告知する為のエッジ より

私が、タダ働きが世界を動かすと、痛快!モヒカン族で訴えたいのは、「エートスの転換が今起きている」ということです。そして、どちらも、今形作られつつあるその新しいエートスの中身を正確に記述するよりは、そのような現象を認識できない人、しようとしない人に、まず、そういうことが起きているんだよ、という認識を持ってもらうことをめざしています。

新しいエートスの内容についての記述であれば、上記の白田先生の論文をはじめとして(この補足もいいです)、いくらでも素晴しいものがたくさんあります。しかし、いくらそういうものが広まっても、絶対にそれを認めようとしない人も一方で存在します。

そのギャップは広がる一方だし、現在の社会の中で、支配的地位についている人ほど、これを認識しない傾向が強いと思います。その結果、社会の仕組みとエートスが乖離してしまったら、無駄な葛藤を多く呼び起こすことになります。

このエントリを読んで、新聞に書かれた言葉たちに接しているときに感じる違和感とか、感じられないリアルとかというのは、この辺の支配的地位についている人の認識と転換し始めた社会とのギャップによって生じているのだろう、と思いました。





新聞というものの特性については、寺田寅彦氏のジャーナリズム雑感にあるとおりで、

それは、言わば、具体的事実の抽象一般化、個別的現象の類型化とでも名づけるべき方法であると思われる。
 殺人事件というものが古来一つもなかったらどうにもならない話であるが、幸か不幸か昔からありとあらゆる種類や型式の殺人事件の数が実におびただしい多数に上っており、そうしてそれらの一つ一つについてはまた実にいろいろの記録が残っている。古い昔から物語や小説や講談に、どこまでがほんとうでどこまでがうそかはわからぬようなものばかりではあるがとにかく記録が多数に残存し、われわれは知らず知らずそういうものに習熟していつのまにか頭の中にいろいろな殺人事件の類型を作り上げしまいこんでいるのである。それで今日ただ今眼前に一つの事件が起こったとき、その事件の内容の一端だけを知れば、それだけのわずかな資料によって当該事件がおよそどの型に属するかという漠然(ばくぜん)たる見当をつけることができるように、そういう準備がいつでもできているのである。その見当が当たっているか狂っているかは別問題であるが、見当をつけ得られるということが肝心の問題である。そこで某殺人事件の種取りを命ぜられた記者は現場に駆けつけて取りあえずその材料を大急ぎでかき集めた上で大急ぎでそれを頭の中のカタログ箱の前に排列してそうしてさし当たっていちばんよいはまりそうな類型のどれかにその材料をはめ込んでしまう。そうするとともかくもそこに一つのもっともらしい殺人物語ができあがる。さて、こういう記事を読む読者のほうの頭の中にもやはり同じ物語や小説やから収集したあらゆる類型がちゃんと用意されてあるのだから、新聞の類型的描写が自然にぴったりとこっちの持参の型のどれかにはまり整合する。従ってそれで完全に納得し、満足し、そうして自分では容易にできないのを他人のしてくれた殺人のセンセーションを享楽することができるのである。

新聞というメディアでは、ある時代において情報を素早く分かりやすく伝えるようにある種の最適化が行われたのだと思います。ただ、その最適化された結果としての「具体的事実の抽象一般化、個別的現象の類型化」は、読み手と同じ型を共有することが前提であり、読み手の型が変わったときには、書き手の型も変えないと、読み手の納得とか満足とかは得られなくなってしまうのではないか、と。





経営・会計通信 知識も進化する から言葉を借用させていただくと、

南一哉さんが指摘する進化論のアナロジーを借用すると、狭く分断された環境に住んでいる種は、進化が止まるか、その環境に最適化しすぎて、環境の小さな変化にも耐えられずに絶滅してしまったりする、と考えられないでしょうか。

魔女狩り」という行為をどのように考えるかも諸論あるでしょうが、悪意のない市民が地域コミュニティが醸成した迷信を信じて参加したと考えることはできないでしょうか。アメリカで集団自殺に走った新興宗教や日本でテロ行為に走った新興宗教も、信者同士のコミュニティ内で醸成されたというか、煮詰められていった発想の中でのことと考えられないでしょうか。

ポパーが進化論的認識論でEE(誤り排除)の過程を経ないと次の段階へ進めないとしていることを想起して申し上げると、コミュニティ内の議論が煮詰まって暴走する事態を防ぐには、他のコミュニティからの「突っ込み」と、それに真摯に反応する態度をコミュニティ内で持つことだと思います。

情報をめぐるネガティブループ、とでも言えばいいのかな。型が違う、と読まなくなった人からはフィードバックを受けられない。フィードバックがなければ、書き手は読み手の変化に気付かない。そして、また自分のてもとにある型のいずれかを使って、情報を発信する。その結果、別の読み手も、型が違う、と思い始め、読まなくなる。そういうループに完全にはまってしまう前に、どうにか、こうにか、何とか。特に、私の場合は、紙面の随所から感じ取れる煮詰まり感は、今の自分の煮詰まり感を思い出させるので、なおさら、違うものを見たほうがいいような気がしてしまっています。







新聞っ子は泣いている。







no matter what they say
まわりも自分も理解してこそ。と、自戒を込めて。