突如姿を見せた荒れ狂う暴力性



このまえ、私はこんなことを書いた。

「具体的事実の抽象一般化、個別的現象の類型化」は、読み手と同じ型を共有することが前提であり、読み手の型が変わったときには、書き手の型も変えないと、読み手の納得とか満足とかは得られなくなってしまうのではないか、と。





きょう、私が体験したことは、この逆、のことだった。







少し時間を戻す。





木曜日のニュースの見出し。

金融街の朝騒然、地下鉄から血まみれの乗客次々

この言葉をみたとき、わたしが思い出したのは、10年前のできごと。あわてて、数日前に読んでいた『アンダーグラウンド』を引っ張りだし、アンダーラインを引いた場所を確認する。

私たちの社会はそこに突如姿を見せた荒れ狂う暴力性に対して、現実的にあまりにも無力、無防備であった。

私たちは、また、荒れ狂う暴力をおびき寄せてしまったに違いないのだ。もちろん、TKYとNYCとLDNがおびき寄せた暴力は、似て非なるものではあるが。





突如姿を見せた荒れ狂う暴力性・・・。





私は、どこかで見た、その光景を必死に思い出す。





あわてて、何ヶ月か前まで読んでいた『アフターダーク』を引っ張り出し、アンダーラインを引いてみる。

いずれにせよ、夜のうちにその部屋で起こった一連の奇妙な出来事は、もう完全に終結してしまったように見える。ひととおりの循環が成し遂げられ、異変は残らず回収され、困惑には覆いがかけられ、ものごとは元通りの状態に復したように見える。私のまわりで原因と結果は手を結び、総合と解体は均衡を保っている。結局のところ、すべては手の届かない、深い裂け目のような場所で繰り広げられていたことなのだ。真夜中から空が白むまでの時間、そのような場所がどこかにこっそりと暗黒の入り口を開く。そこは私たちの原理が何ひとつ効力を持たない場所だ。いつどこでその深淵が人を呑み込んでいくのか、いつどこで吐き出してくれるのか、誰にも予見することはできない。

これは、突如姿を見せた荒れ狂う暴力性、そのものではないのか?





この小説を読んでいたときのことを思い出してみる。と、それはもう酷いもので、何のことが描かれているのか、何を云わんとしているか、さっぱり分からなかったのである。しかし、今になってようやく、私は気付いたのだ。テロというニュースを通して。突如姿を見せた荒れ狂う暴力性という枠組みをもって、この本を読めばよかったのだということを。





つまり、何のことが描かれているのかを理解するきっかけとなる「型」を手に入れられたのだ。




ついでに、この前、読んでいた、新潮2005年5月号の『東京奇譚集3 どこであれそれが見つかりそうな場所で』も、さっぱり分からなかったのを思い出す。これも、「型」を手に入れた今なら、少しは読み進められるだろう*1





結局のところ、書き手と読み手は、何らかの型を共有することなく、物語を理解するなどということは、あり得ないのだと思う。読み手の型が変わったときに書き手が型を変えなければいけないように、書き手の型が変わったときに読み手が型を変えなければならないことだってあるのだ。前者は、読み手が受動的な場、例えば、テレビや新聞のような場であり、後者は、読み手が能動的な場、例えば、出版物のような場である。インターネットという場は、どちらかといえば後者の場に入るだろう*2。つまり、読み手の力量が問われることもある、ということだ。









村上春樹さん=『国境の南、太陽の西』『スプートニクの恋人』。
いつの間に、私の認識は、この方程式に縛られるようになってしまっていたのか?自分の絶え間ない変化を棚に上げて。




 

*1:この東京奇譚集の正しい?読み方については、「考えるための道具箱:村上春樹を愉しもう。」あたりをご覧下さい。

*2:インターネットは、今まで、基本的には能動的なメディアとして捉えられてきたと思う。ただ、ぶくまの登場で、何となく状況が変わりつつあるのをひしひしと感じずにはいられないのだが。