ネタにマジになってレスをつけてみる。愚かなりわが心。


そろそろほとぼり冷めた頃じゃないかと思って、こっそりレスなど書いてみる。



Éclat Des Jours 世界中どこでも技術者は愛されている(多分) で書かれている

政治家は半泣きしながら、しかしきっぱりと言った。いや、誠に無礼なことをした。確かに木曜日の午後に我々がプレイしようというのが間違いだ。これから木曜の午後は彼らのために解放するよう、市議会に働きかけよう。先ほどひどいことを言ったせめてのおわびだ。

技術者が言った。木曜の午後を彼等に明渡しても無駄だ。それより僕は夜中のゴルフ場を彼らのために解放開放することを提案する。そうすれば我々は木曜の午後を楽しく過ごせるし、彼等も心置きなくプレイに専念できるというものだ。

という会話は、それぞれの職業についている人たちのことを本当にうまく表現していると思うのだが、一方で、もし、現実に自分の身の回りでこの技術者のような発言をする人がいたらどうしよう、とも思った。



原文直訳のほうが分かりやすいので、そちらも載せておく。(via アメリカの部分的観察 アメリカンジョーク#121

牧師;「そいつはお気の毒だった。 就寝前に特別な祈りを彼らに捧げよう。」
医者;「それがいいね。 ついでに、知り合いの眼科医に声をかけてみよう。 いい治療が受けられるかもしれん。」

ちょっと間があくが・・・

エンジニア;「連中は何故夜間にプレーしないんだい?」

圏外からのひとこと 全体的最適化=無痛システムに関する社会システム論的考察 では、上記のエンジニアの発言に対して、こう述べられている。

つまり、「健常者は昼、目の不自由な人は夜」という棲み分けをするというアイディアは、両方が自分たちのペースで気兼ねなくプレーできるので、理想的な解決法に思える。確かにこの方法によって、無駄な摩擦を回避することはできるが、同時にそれが障碍者と健常者の共存とは何か考える機会を奪うことにつながる。

例えば、前に障碍者の人がいたとしても、「待たせてすみませんね」「いえいえ、どうぞごゆっくり」といったちょっとした会話で、お互いに気持ちよくなごやかにプレーを続けていくという可能性はある。そこに起こる相互理解は、単にゴルフがスムーズにプレーできたという以上の意味がある。棲み分けによる分断化によって、そういう可能性はなくなる。

もし、エンジニアの言うような棲み分けによる分断化は起こらず、ちょっとした会話ができたならば、初対面における定石的なこんな会話がなされるのだと思う。

「今日は爽やかないい天気ですね。」
「ええ。」

そのとき、エンジニアは気付くような気がするのだ。目が見えても見えていなくても、昼には昼の日差しがふりそそぎ、夜には夜の風が吹くということに。そこには、大きな違いがあるということに。










私は、昔、エンジニアと呼ばれる職業に従事していたことがある。(とはいっても、それはSEとか言われるものだったので、普通のエンジニアとはやや違うのかもしれないが、その点についての議論はまた別途とさせていただく。)そもそも、私が何故エンジニアを志したかといえば、1つの窓を通じて世界中の人たちとつながる衝撃が忘れられなかったからで、その頃は、窓の向こうには、たくさんの人やその人たちの思いがあると思い込んでいた。しかし、仕事で接する窓の向こうに待っていたのは、フローチャートとか数式にしないと会話をしてもらえない得体の知れない物体で、その物体と日々何時間も会話をしていると、世の中、全てイフ文とか論理的記号とか数値とかで表せてしまうのではないかという気になった、というか、正確には、そういうものだけが流通する思考回路が自分の頭の中の一部に勝手に作られてしまったように思う。こういう思考回路を、現実世界に適用してしまうと、「連中は何故夜間にプレーしないんだい?」という言葉が出てきてしまうのだろうが、現実は簡単なイフ文ですみわけを定義できるほど単純ではないだろう。



ジャン・ジグレール氏の『世界の半分が飢えるのはなぜ?』という本の最終節は、以下のような文章ではじまる。

人間は自分以外の存在の痛みを感じ取れる唯一の生きものだという。

得体の知れない物体に対しては、普段、相手が痛みを感じているかどうかなんてことは考えたことがなかったが、少なくとも人間は痛みを感じる。そして、私たちは、すすんで夜間にゴルフをしないのはボールが見えないからだけではない、つまり、夜間にゴルフをしなければならないということは何らかの犠牲を強いられている、ということを感覚的には十分知っている。しかし、そういう感覚というのは、昼と夜でお互いすみわけられるという分かりやすい効果と比べて、形として捉えにくい部分があり、エンジニア的思考回路になっているときには、ついつい忘れられがちになってしまうところがあるように思う。(かなり自戒込み)



でも、別に、私は「こういうエンジニア的思考回路はいらないのだ!」と思っているわけではない。圏外からのひとこと 全体的最適化=無痛システムに関する社会システム論的考察 に戻るが、

だから、私の結論は陳腐なもので、システムは倫理的課題を解決しないし、倫理はシステム的課題を解決しないということだ。しかし、システムはシステム課題を解決することはできるし、それをやめるべきではない。ただし、その際に、その解決が倫理的課題をも解決したという幻想を持ってはいけない。幻想を持たずにシステム的解決を提示して、それが(ある人たちに)拒否されることによって、ひとつの倫理的な課題を明確化することができる。それがプログラマのすべきことだと思う。


システム的解決案がなかったとしたら、痛みという感覚が浮き彫りになることもなかったのではないか、ということがあるだろうし、てくのーと モヒカン族の仮定 に書かれているように、

artonさんの「世界中どこでも技術者は愛されている(多分)」を読んでも分かるように、そういう技術者のメンタリティ、流行り言葉で言えば「殺伐さ」は世間との折り合いが悪かったりもするんだけど(言及リンクとかTBスパムとかは結局そういう問題だと思う)、ソフトウエアはまずいところが有れば直せばいいんだから、開発者は殺伐と思いついたものを黙々と実装すればいいんじゃないかな、と開き直りつつある今日この頃。


結局、世界はそうやって、仮説を出して、現実世界に照らし合わせて、足りないものを考えて、また仮説を出して、というようにして、先に進んでいくのだという気がしている。