本当の自分・・・



なんかこう、ひさびさにソーシャルネットのページを開いたら、ふるーい自分のブログのアドレスが書いてあった。そういえば、昔はどんなこと書いていたのだろう?と気になったので、読んでみた。正直な感想は、





素直でいいな。





ものすごく自然。





肩肘張ってない感じ。





とにかく、何かいい感じなんだけど(笑)。





こんなこと、自分で書くことではないけれど、そう思ってしまったのだから仕方あるまい。

あのブログからすこし距離を置こうと思った頃、このブログを始めようと思った頃、私は何から離れたいと思い、何をもの足りないとと思っていたのか。





ネタ書くのに疲れたとか、そういうのもあった。





が、一番の理由は、その場が常に知人にさらされていることで、その人たちに見せたことのない一面を見せる勇気がなかった、ということであったように思う。別に悪いことしているわけでもないのに。





ただ、あのブログをみて自然だなと思い、このブログは不自然かもしれないな、と思ったということは、リアルな自分は、自分が思っている以上に、このブログに書いているような一面によって占められていない、占められていたとしてもごくごく一部でしかない、ということなのだろう。





ここで、私がとるべき選択肢は、どちらなのか?

1:リアルな世界のなかで、このブログのような一面を少しずつ開示してみる。
2:このブログのなかで、昔のブログに書いていたようなことを書いてみる。





いずれにしても、たくさんの人格をうまく使い分けて操れるほど器用な人間でもないので、これ以上、自分の思考を棲み分けさせるのはけっこうなかなか無理があるだろう。リアルと距離を置いた自分というのは、割と無理に自分から型にはまりすぎる傾向があって、振り子も振り切れやすいし、リアルの世界で外界に対応するために培われたしなやかさが失われている。





一言でいってしまうと、偏屈?





何か、こう、微笑ましさがかけらもないブログ。





・・・でもって結論としては、1を選択したことによってリアル世界で損害が生じるリスクを引き受ける余裕が今はないので、2を選択して少しでもこのブログから微笑ましさが感じられるようにするしかないのだろう。ただ、昔みたいにネタを書かずにそれを実現することはできるのだろうか?結局、私のリアルというのは、ネタで埋め尽くされていて、それが自然でそこに微笑ましさがあるとすると、1ではないとはいえ、やはりリアルでの自分の生活を変えて、ネタじゃない微笑ましさを生み出せるようにならない限りは、どうにもこうにも先に進めないことになる。





ブログのあるべき姿のためにリアルな世界での自分を変える、というのは、言葉にしてみるとちょっと気持ち悪さを感じないわけではないけれど、既に、私たちの生活は、このネットワークの世界と切り離して考えるのが難しいところまできてしまったことを考えると、それはそれでありなのだと思う。要は、自分がまともになれればよい。むしろ、そのまともが何なのかとか、まともになるためにどうしたらいいかということに答えが見出せていないことのほうがよっぽど問題だろう。