流れるもの







ああ、私は泣きたかったのだ、と思った。





年をとったからなのか、最近、随分と涙腺が弱くなった。涙は出せずとも、あるかたまりに触れた感覚は、私の心を融かし、そして、私の目を融かす。なぜ目なのかは良く分からない。調べればいいのだろうけれど、今日はgoogleには触れたくない気分だ。

この気分に無理やり因果を与えるならば、お盆というものが、先に進みたがる私たちに黙ってどこかへ戻る時間を与えるものでもある、ということを自分の心のどこかが憶えているからかもしれない。

そして、涙にも理由を与えるならば、ひとつは、(一応私にもある)社会的立場に関わることなので、具体的にはここには書かない。もうひとつは、、、





郵貯の問題とは、多くの人が書いている通り、まさに日本の金融システムの問題であり、政治学社会学・経済学・等々にそれなりに疎い無党派層の一市民の実感としても、郵政民営化とは、その問題を解決するために必要十分ではないが、必要な手段であるのだと思う。つまりは、日本の金融システムの問題は、今となっては色々あるのだけれど、そのうちの大きなひとつは、郵貯に始まり、国債に終わるのだ、と。

短絡的な発想ではあるが、国債といえば、あんな本もあったよな、と、気付く。幸田真音さんの「日本国債」。

ざっくり書くと、この物語は、日本国債のマーケットで健全な市場を作ろうという決意を行動に起こそうとした野田義則というトレーダー、その善意を自己の利益のために利用しようとした倉橋貞三郎という総理大臣、そして、その総理を追う刑事をめぐる物語である。

その野田が書き残したメモの一節。

この国の国債市場は化け物だ。これだけ乱発される国債の発行量がありながら、なぜ価格は下がらない?金利はどうして正常に反応して上がらないのか?この国独特の未整備な税制や決済制度が、これだけ海外からの買いを制限し、発行量のほぼ全額を日本人だけで消化しているという現状を適切に認識させ、その理不尽なまでのシステムと、それを放置している怠惰な金融当局に、早急に改革の必要性をはっきりと自覚させなければならない。そのためには、なまぬるい方法では無理である。むしろ不正な手段をも執るしかないのかもしれないとつくづく思う。正義のために悪をあえて選ぶ、悪には、こちらも悪になってぶつかるしか方法はないのだ。

これを読んで、はっとした。





実はこの前、私は、ある本の書評から以下のような話を引用していた

 まず、率直な疑問を述べたい。単刀直入にいうならば、フランス革命にしてもナチス台頭にしても、「カーニヴァル」ではなかったか、ということである。本書では、「カーニヴァル」化する政治はサステイナビリティがないとされている。著者はこのことを、「コントロール不可能性故に、危険な帰結を導く」ことよりも、「より重大な問題」かもしれない、と指摘するが、しかし、ここは憲法学者サンスティーンの問題意識のほうが、本質的であるような気がする。即ち、大革命・大変革としての「カーニヴァル」をドカンと一発打ち上げた後、熱狂冷めやらぬうちに(夢から覚めないうちに)、恐怖政治を敷いてしまう、という算段である。

私は、この書評を読んだとき、小泉首相の手法から、世界で起きた恐怖政治を連想した。そして、単純に怖いと思った。そして、


小泉首相は悪だ。


という仮説を完全には否定しきれないのだと思った。そして、私の心は途方にくれた。





しかし。
先ほどの本の一節にある「悪には、こちらも悪になってぶつかるしか方法はない」というのが本当ならば、例え、小泉首相が悪だろうと、それは小泉首相を支持しないという結論を導くものにはならないのだろう。寧ろ、現行の金融システムという悪に立ち向かうには、多少の悪さえ厭わないという国民の覚悟が必要なのではないか?



首相の覚悟ではなく、国民の覚悟。




同じ「日本国債」の一節から。野田はこのような言葉も残している。

国債は、国の借金です。その借金をわれわれ国民が担わなくて、誰に担わすんです。この国を一番心配しているのは、この国に住んでいて、これからもずっと住み続けていかなければならない国民でしょう。その国民が、この国の借金に協力できないとしたら、そこにこそ問題があるとお考えになりませんか。そして、その現状こそ打開すべきだと思われませんか。

ここに書かれているのは、まさに国民の覚悟の必要性である。この本に出てくる野田という人物の言葉は、作者が出会った数多くの市場関係者たちのストレートな思いそのものなのではないかと思うのだが、そこには、この国への愛から生まれた、健全な市場を守ろうとする痛いほどの覚悟があって、それは、一国民としての覚悟にほかならない。





覚悟。





少し話はそれるが、その言葉を聞くとき、私は必ずあるスウィートハートの物語りのある一節を思い出す。

そうしたらわたしは真実をあらためて呑み込むしかないだろう。
「いいですか、人が撃たれたら、血は流れるものなんです」

血は流されなくてはならない。わたしはナイフを研ぎ、犬の喉をどこかで切らなくてはならない。

   そうよね?
   そのとおり。

そう、そのとおり。涙の後には、覚悟が生まれ、血が流れる。
彼女は、真実を守るために、覚悟をし、夢と違って噛みつく現実に、愛をぶつけて、血を流した。

今回、私たちは、守りたいものを守るために、覚悟をし、夢と違って噛み付く現実に、愛をぶつけて、血を流す。

そうよね?そのとおり?










最後に、もういっぺんだけ、「日本国債」に話を戻す。
この物語のオチは、トレーダーの善意を自己の利益のために利用しようとした倉橋貞三郎という総理大臣の悪意は、結局、アメリカに利用されて食い物にされるという最悪の結果を招いただけだった、というものである。
アメリカ人がそれを皮肉って、倉橋に渡したメモに書いた言葉は以下のようなものだ。

すべては、閣下のお望みのままに、市場クラッシュも。日本国債(JGB)も。

今回の選挙に悪意を持って勝ったのなら、物語りと同じように、これも皮肉にしかならない。しかし、善意で勝ったのなら、本当の意味で、日本国債を望みどおりの方向に持っていけるはずだ。

彼らは、何のために、政策を進めようとしているのか?そこには、どんな覚悟があって、どんな愛があって、何を守ろうとしているのだろうか?





国民の覚悟ではなく、首相の覚悟。





私たちは自分たちの覚悟で、マーケットを動かせない。そのかわり、私たちの覚悟を誰かに託すのだ。何かを守ろうとする愛からどんな覚悟をした人に?



THERE'S A LINE BETWEEN LOVE AND FASCINATION. THAT'S HARD TO SEE !
愛だという確信は、時に愚かなものである。そこに、私の心の迷いがある。










と・は・い・え。

いい加減長くなってきたので、まとめてみると、つまりは、向こう側が悪に見えようと、こっち側の愚かさに気付こうと、そんなことは、もう、どうでもよくて、とにかく、向こう側もこっち側も覚悟を決めて、涙なり血なりを流さなければならないのだろう。そうすれば、そこには自然と流れが生まれる。この国を幸せに導く流れが。きっと。


  
相当に乱暴な結論だが・・・。