クラゲの逆襲



私が自分の残虐さに気付いたのはいつ頃だっただろうか。アリとクラゲ、どっちが先だったのか、よく覚えていないが、アリと戯れていたのは恐らく小学校の高学年、クラゲと戯れていたのは恐らく小学校の低学年。多分、クラゲが先なのではないか?







クラゲ。


私は、海水浴の合間に、クラゲごはんを作っていた。といっても、そこには、本物のごはんはない。ごはん代わりの泥、おかま代わりのカラフルなバケツ、しゃもじ代わりのスコップ。しかし、クラゲだけは本物だった。
クラゲを水揚げして、スコップで一生懸命、バケツの中の泥に混ぜていく。すると、今までいたはずのクラゲは、みるみるうちに姿を消してしまう。おかしいな?と思いつつ、私は何度も繰り返す。クラゲを水揚げしては、泥に混ぜ、クラゲを水揚げしては、泥に混ぜ、、、。恐らく、小さい頃から、私は頭が固かったのだろう。

しかし、そんな私でも、幾度とも数えられない繰り返しの後で、繰り返したところで姿が現れるわけでもないことに気付く。

そして、その後に、ある重大なことに気付く。





大量のクラゲは、消えていたのではなく、消されたのだ。

私によって。





私は、今でも、時々、このときのことを思い出しては、ぞっとする。自分にこういう部分があるというのは知っているけれど、それを知らないふりができるのなら、ずっと知らないふりをしたまま生きていたい。なのに、何故か、このことはひどく忘れられない。忘れたくても忘れられないから、どうしようもない自分についての笑い話として、よく人にも話す。でも、それは、一瞬の気晴らしにしかならず、何の根本の解決にもならない。


私が死なない限り、私からクラゲへの言い訳は続く。多分。










忘却できない、ということは何を意味するのだろう?

そもそも、忘却なんてものは、私が心?あたま?の仕組を捉えるのに、都合のいいように生み出した概念であって、本質のところは、今の私が思っている(=昔の私が教わった)ようなものとは全然別なものなのではなかろうか?
・・・とか書きながら、ただ単に、私が何も知らないだけだというだけのような気がしてきた。きっと、どこかの誰かが、このメカニズムをきちんと解明しているに違いない。私がそれを知らないだけ。または、私がそれを知っているのに忘れているだけ。










クラゲの話に戻るが。

最近、日本の沿岸で、クラゲが大発生している。現在の日本の漁業にとって、原油の高騰(=原価高騰)も大問題だが、網を壊したり網の中の魚を傷付けたりするクラゲの大発生も相当な大問題のようである。

もちろん、私が見たクラゲと、今、大発生しているクラゲは、種類も大きさもだいぶ違うわけだが、私が、この事実とクラゲという言葉から連想するのはこういう内容である。










クラゲの逆襲。










ただの言葉遊び、、、だといいのだけれど。