戦後という時代と



"いわゆる"20代の人たちが選挙に行って、自民党に投票して、小選挙区制の特性も作用して、自民党が勝った、という選挙結果(相当な省略あり)を見ていて何となく感じたのは、「戦後という時代」が少しずつ終わりに近づき、そして、新しい時代が始まりつつあるのかもしれないな、ということだった。



「戦後という時代」−−− それは、小学生の頃ぐらいから、私の意識の中にあったものだ。



私は、小学生の頃から、自分の考えの型みたいなものが、同じ学年の多くの人たちと異なる、ということに戸惑いながら毎日を過ごしていた。そして、この自分の考えの型がどこから来るものなのか、という疑問をずっと持ち続けていた。

しかし、社会人になってからのある日、私は、自分と同じ考えの型を持つ人たちというのが、自分よりも上の人のほうが圧倒的に多い、ということに気付いた。そして、自分の考えの型が同じ学年の多くの人たちと異なるという現象は、親の年代の違いによって引き起こされていたのではないか?と思うようになった。

そして、その後、世代論を論じている、とある日記はてなで見つけて、その仮説が強ち間違っているわけでもないということを知った。



結論を書くと、私の学年は、戦後生まれの親に育てられたマジョリティと、戦前生まれの親に育てられたマイノリティという、2つの異なるグループに属する人間が混在していたのだ。そして、この混在状態の中で、私は、「戦後という時代」の考えの型を必要以上に意識しながら生活せざるを得なかったのだ。

戦前という時代→戦中という時代→戦後という時代→戦争を知らない時代?、という感じだろうか。「戦後という時代」の考えの型は、戦前の時代の教育を受け、戦時中を生き、敗戦を経験した人たちが作ったものだ。



選挙の話に戻るが。



戦後生まれの親に、「戦争を知らない時代」の考えの型をもとに育てられた、"いわゆる"20代。マスコミで報道されている話や、私のまわりの人たちの話からすると、彼らの中の浮動層の多くは、躊躇なく、自民党に投票したのではないかと思う。

東京新聞の「小泉自民寄りくっきり 20代のココロ」という記事にも、20代の人たちの発言が取り上げられている。

彼らの親が戦後生まれかどうかは、確かめようもない。しかも、ちょっと誇張しすぎだろうと思うところもある。ただ、この躊躇のなさ、直感的にも自民党という考え方は、私のまわりの"いわゆる"20代と同じように思う。



データが揃っているわけでもないので、単なる仮説でしかないのだけれど、今回の選挙に対しては、彼らの及ぼした影響がそれなりに大きかったように思う。つまり、"いわゆる"20代の人たちが選挙に行って、自民党に投票して、小選挙区制の特性も作用して、自民党が勝った、のではないか、と。(もちろん、自民党を支持した浮動層は彼らだけではないことは確かだ。しかし、彼らの票や彼らの生み出した空気なしには、ここまでの結果にはならなかったように思う、というだけの話。)



「戦後という時代」の考え方に縛られない、新しい考え方が、この時代を動かしつつあるのかもしれない。



もし、そうだとすれば、良い意味でも、悪い意味でも、色々変わっていくだろう。多分。



良い意味での変化を少しでも多くして、悪い意味での変化を少しでも減らすことは、常に、彼らの考えの型と対峙してきた自分がしなければいけないこと、のようにも思う。

とはいえ、どれが良い意味で、どれが悪い意味で、という判断なんてのは、きっと、今を生きる私には無理なときのほうが圧倒的に多い気がする、けれど。