ホールインワンと何度も呟いていたらフォーリンラヴに聞こえてきた(幻聴?)

※ うまく考えがまとまらないので、このエントリは何度も書き直すことになるような気がします。その点、ご了承下さい。










「いま、恋してる?」と聞かれて、わたしは「うん」と答えた。










でも、その人と別れて歩き出してから、ふと、わたしはほんとうに恋をしていると言えるのだろうか、と思った。










何でこんな疑問が浮かんだかといえば。


自分でも笑ってしまうのだけれど、昔の私は、私が恋しているかどうかは自分で気付くことはなくて、他人に様々な行動を指摘されて初めて「自分が恋してる」ことを知っていたのである。


なので、私は、自分の認識だけで、ほんとうに恋をしていると言えるかどうか、全くもって自信がない。単なる思い込みかもしれないし、恋以外の何か、例えば、惰性かもしれないし、別のことへの反動かもしれないし、ただ単純に嬉しいだけかもしれないし、その組合せかもしれないし。でも、それを恋と呼ぶのかもしれないし。


ただ、私が今までの経験則から1つ知っていることがあるとすれば、それは、恋の手前には、信じるという前提があり、私は恋していると感じている「何か」を信じているということだけである。


でも、信じることと、恋は、別物でもある。











悲しみには終わりがなく、幸せには終わりがあるように、
愛には終わりがなく、人間には終わりがあるように、


信じることには終わりがなく、恋には終わりがある。











私は、このことを知っていながら、先に進まずにはいられないのだ。


終わりがあっても、幸せを感じたい。
終わりがあっても、人間やってたい。


終わりがあっても、恋していたい。


ただ、それだけ。




















・・・恋してるかどうかなんてことは、もう、どうでもよくなってきた。


自分がただ恋をしたいという事実の前では、考えるだけ無駄なような気がしてきた。


私が今、恋と呼んでいるものが、
実は、単なる思い込みだろうと、
どっかの定義では恋でなかろうと、
恋をしていると思うことで幸せになれるのなら、
恋をしていると思うことで人間やってると感じられるのなら、
それらの失いたくない感覚を奪う資格は、他人や他のものに迷惑をかけない限り、少なくとも私自身にはないような気がする。




















で。










最近、スポーツ紙や夕刊紙や、遂には、全国紙の紙面まで騒がせている「私の恋の対象」については、また別の機会に書くことにしよう。6年前に拾ってしまった疑問のことも含めて。(結構面倒な話なので、ちゃんと書けるかどうかとても不安。でも、私にとってはここら辺で整理しておきたい話ではあるので、気力があるときにでも、頑張って書いてみようと思う。)





おしまい。