ハピネスってなんだろう?の書き直し。
今日の文章は、どこかの宗教の布教活動の一環として書かれたものではありません。宗教には何も求めない、という私のスタンスは変わっていません。念のため。
だいぶ前に、私はこんなことを書いた。
ささやかなお金から得られる幸せと、見えなくても分かち合える幸せ。それが凡庸な私の求める幸せなんだろうと思う。
しかし、先ほど、私は、この文章の抱える重大な問題に気付いた。
「分かち合える幸せ」なんて書いているけれど、そもそも、分かち合える幸せなんてあるのか?ということである。
結論から言ってしまえば、そんなもの、きっとない。
のだと思う。
そう思う理由を少し書いてみることにする。
きっかけは、「とある投資関連の本」で紹介されていた「とある考え方」にちょっと興味を持って、ふと手にした『ある日、わたしの魂が開いた―40日間のスピリチュアル・ワーク』という本の一節であった。
幸せとは普通、その時どきの外側からの刺激に対する思考や感情の反応で、それは必要や要求の認識からきています。
これを、自分に対して分かりやすく書き直してみると、
「自分が必要としている外側からの刺激を得られたときに幸せと感じる。」
もしくは、
「自分が必要としている外側からの刺激に対するある種の効用が思考や感情であったのなら、それは幸せだ。」
ということになる。
この考え方は、過去の私の経験と照らし合わせてみると、私にとっては、しっくりくるものだ。今の私にとっては、この幸せの定義はあっているように思う。
で、話を先に進めると、この幸せの定義に基づいた場合、そもそも、分かち合える幸せなんてあるのだろうか?
つまり、消費行動に伴う思考や感情、というのは分かち合えるのだろうか。
私の足りない頭で考えたところによると、思考や感情というのは、分かち合うものではないのだろうと思う。それは、自分自身の内部のプロセスでしかないから。(とはいえ、必ずしもそうは言い切れないというところもあるとは思うけれど、今の私には、幸せに関しては、悲しみなどよりも、内部プロセス的な部分が特に強いような感じがしている。)
では、何故、私はあの時、分かち合える幸せ、と書いたのか。
ただ、私はお金の絡まない何か、を書きたくて、私の頭の中にあった「それっぽい表現」を拾ってきたにすぎないのだと思う。すみません。
そして、もう少し突き詰めて、今だったら、何と書くだろう?と考えてみる。
多分..........。
自分が支払うことのできるささやかなお金と同等分の、どこかからいただく幸せと、自分が与えることのできる幸せより多くなることはない、どなたかからいただく幸せ。それが凡庸な私の求める幸せなんだろうと思う。
・・・ここで重要なのは、自分が与えることのできる幸せより多くなることはない、ということである。
ここに、お金と幸せの違いがある。
お金について言えば、私自身にはお金を生み出す能力はなく、お金は「労働を対価として得た分」しか支払えない。
しかし、幸せについていえば、私自身に幸せを生み出す能力があり、幸せは「自分の中で作りだす何かを対価として得た分」を他人に与えることができる。
簡単に言うと、自分で何かを作ってみて、それがうまく作れたとして、それがつくれたといううれしい気持ちは、自分の心の安定につながって、他人からやさしさをもらっていなくても、他人にやさしくなれる土壌になる、みたいなことである。
但し、その幸せを生み出す能力を使うことは、私にとって、あまり簡単なことではない。というか、ものすごく難しい。少なくとも、今の私にはできていない。
今の私がすべきなのは、その能力を使えるようにするための努力なのだろうと思う。