私の身近にある、深い裂け目(nearness of me)



最近の私は、自分の書いたエントリのいくつかが、ちぐはぐに繋がっていくような感じをうけています。今日はその中のひとつの繋がりについて、書いてみたいと思います。



ちょっと前に書いた、このエントリですが、これは、竹内まりやさんの『quiet life』というCDにインスパイアされて書いたものです。(もちろんそれだけではなく、はてなポイントに関する何かがあって書いているわけですが、その際に感じたはてなポイントの仕組に関する話というのは、また機会を改めて書きたいと思います。)



で、その『quiet life』というCDの秀逸さについては、私がだらだら述べることでもないので、ここでは割愛したいと思いますが、ちょっとだけ書くと、ご本人も、スタジオミュージシャンの方々も、コンセプトも、とても素晴らしく、本当に良質なJ-POPだと思います。



話をもとに戻すと、私は、特に『quiet life』の中の「告白」「COOL DOWN」という2曲をちょっぴり使わせていただいたわけですが、この「告白」という曲をひさびさに聞いていたところ、気が付いたら、私の頭の中で、村上春樹さんの小説のことが思い浮かんでいました。



国境の南、太陽の西』のことです。



そして、そのときに、ああっ、と思いました。



私は、以前のエントリで、村上春樹さんの本のテーマが『アンダーグラウンド』以降変わったのではないか?ということを書いたことがあります。でも、それは、間違いなのだ、ということに気付いた、ということです。



アフターダーク』からもう一度引用しますが、彼の扱っているテーマの大筋は、ここから何もぶれていないのだろう、と、今は思っています。

いずれにせよ、夜のうちにその部屋で起こった一連の奇妙な出来事は、もう完全に終結してしまったように見える。ひととおりの循環が成し遂げられ、異変は残らず回収され、困惑には覆いがかけられ、ものごとは元通りの状態に復したように見える。私のまわりで原因と結果は手を結び、総合と解体は均衡を保っている。結局のところ、すべては手の届かない、深い裂け目のような場所で繰り広げられていたことなのだ。真夜中から空が白むまでの時間、そのような場所がどこかにこっそりと暗黒の入り口を開く。そこは私たちの原理が何ひとつ効力を持たない場所だ。いつどこでその深淵が人を呑み込んでいくのか、いつどこで吐き出してくれるのか、誰にも予見することはできない。

以前、私はこれを『アンダーグラウンド』の一節を拾って、「突如姿を見せた荒れ狂う暴力性」と定義したのだけれど、それがちょっと不味かったのでしょう。



もし、今、これを定義しなおすなら、「私の身近にある、深い裂け目」とすると思います。
nearness of me。



私の身近にある、深い裂け目のうち、対人的なものについて見るとすれば、それは、『国境の南、太陽の西』に書かれたような、『告白』に歌われたような、「時間的な不可逆性を伴うが故に手の届かない恋」みたいなものなのだと思います。
そして、私の身近にある、深い裂け目のうち、対社会的なものについて見るとすれば、それは、『アフターダーク』や『東京奇譚集』のどこかに書かれたような、「心的な不可逆性を伴うが故に手の届かない世界」みたいなものなのだと思います。

表現として、ちょっとうまく書けていないですが。



で、ここからは、正直、変なことを書いてしまうと思うのですが、思い切って書いてみます。



なぜ、私たちが、その手の届かない世界に手を伸ばしたところで簡単には深い裂け目に堕ちてゆくことがないかと言えば、結局、それは、色々な人の繋がりというか、そこにある感情というか、つまりは、喜びの結果として生み出される幸せであるとか、信頼といったものがセーフティネットのように働いていて、私たちを守ってくれているからのような気がします。
ただ、お金から廻り廻る幸せとか信用とかとは違って、書類上は、それらは全然目に見えないのですが。



最近、なにかおかしなことが多い、というのは、そのようなセーフティネットから落っこちて、その深い裂け目に入ってしまった人たちが、こちら側の現実を、こちら側にはない論理でひっくり返そうとしている、みたいなことのように思えます。
そしてそれが、セーフティネットの網の目が大きくなっていることにより生じているものだとすれば、それは、何となくポートフォリオ的な考え方とかエージェント的な考え方とか、こう、都会的なとも言える、濃度の薄さ、ぬくもりの感じられなさ、みたいなものから生じているものなのかもしれない、と思います。結局、ポートフォリオにしてしまうと、個々の銘柄はどうでもいいといったら失礼ですけど、どうでもいいわけで。結局、意図していようといまいと、どこかに暴力性みたいなものがでてきてしまうと思うのです。
とはいえ、この社会など、そもそもポートフォリオみたいなものだ、という話もあります。しかし、そのポートフォリオが指し示すところは、今、生じつつあるポートフォリオ的なものとは違うのだと思います。そこには、私たちの驚異的な信頼というのが根底にあって、それは、例えば、心臓が肝臓というものの存在を信頼し、自分はあくまでも心臓でいる、というような、という例えもよく分からないですが、そこには、全体最適とか言われる以前に、お互いに個を認め合う濃さみたいのがあるように思うのです。



そして、結局のところ、この世界は離散的でしかなくて、怖い裂け目があると知っていれば、そんなところにはもともと近づかないだろう、と思うのだけれど、今の私の感覚として、時々、この世界がとてもなめらかで、どこでも微分可能な、つまり、有限で安全な感じがしてしまうのも事実です。
にも関わらず、私がこのブログを書いているときというのは、かなりおかしな論理を組み立てながら書いているために、本当はわりと微妙なところを彷徨っているのだろうし、それ故に、一歩間違うと、そこは微分不可能な、現実ではない世界への入り口があって、そこに、すとーん、と落ちてしまう可能性が無きにしも非ず.......。その辺は、そうならないように仕向けて?下さっている、色々な方々に感謝しています。










ここまで書いてみて、何かおかしなことを書いているという自覚はあるのですが、みんなに感謝しようという結論は正しそうなので、途中に書いたことは気にしないことにします。また、これもあれも間違っている、と、何ヶ月か後に思うのでしょうが。